CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«呼吸法(基本的自己洞察瞑想)にはいると思考が出て止まらない | Main | 東北地方にマインドフルネス心理相談員が誕生»
絶対無、身心脱落は深層の秘事の体験であり、文字経典本の読書では得られない [2014年11月24日(Mon)]
長野でまた大地震です。また、つらい思い、うつ病やPTSDが心配されます。火山の爆発もあり、自然災害が多いです。そして、社会を生きていくにもつらいことが多いです。

絶対無、身心脱落は深層の秘事の体験であり、文字経典本の読書では得られない

 道元禅師、白隠禅師、西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、久松真一、井筒俊彦などが指摘するように、 人間の根底の無主客=無我、無本質、無分節、無言語、無生死、無評価、無善悪、無神仏、無経文・・・の事は、体験するものであり、体験しないと実際はわからない。絶対無の体験を道元禅師は「身心脱落」という。「無」でいえば、無「身・心」である。身体、心も分かれていない。言語、自己、身体心の未分、脱落の体験である。そのことにより、人間の根底の真相を知る。

 この引用文でみるように、 道元は、無XXをこう表現している。 無「迷惑」、無「妄想」、無「顛倒」、無「増減」、無「誤謬」。 無「萬法」、無「われ」、無「まどひ」、無「さとり」、無「諸佛」、無「衆生」、無「生滅」 。このような自己の根底がこうであるありさまを実際に体験するのが「悟り」である。しかし、そのまっただなかは、無本質、無言語だから、「これが悟り」だという意識などない。ここを「悟りなし」という。仏もいないことも明々白に体験する。
 人間の言葉でとり決めたものはすべて無。だから、苦悩が解決する。自己評価も、死、他者評価も。宗教思想からの呪縛もない。経典もない、仏教書もない。経典、仏教が表層の言葉で外れたことをいっていることの根底の真相がわかる。

 体験しなければ、自己の真相はわからない。
     「実際の修行道としての襌がいわゆる悟り、見性体験、を中心とすることは誰でも知っている。襌者の修行道程は、見性体験を頂点として左右にひろがる山の形に形象化されよう。この三角形の底辺は経験的世界、頂点に向かう一方の線はいわゆる向上道、頂点から経験的世界に向かう下降線はいわゆる向下道。」 (『意識と本質』井筒俊彦、岩波書店、p142)
 だから、仏教、襌の文献研究者は現実の社会的活用ができていない。ピアノを弾いたことがなく、言葉でだけで理解した人は、ピアノを弾けないし、ましてピアノ教師になれない。

 生の体験と言葉とは違う。言葉は、経典、語録、仏教の学術書、洪水のように出版されている仏教書、襌の本、哲学書、、。すべて、実際、生のものを現していない。まして、体験のない人は、その実際を知らない。
     「事実、襌の実在観は、思想以前のなまの体験としては勿論、たといこれを思想化し哲学化した場合でも、全体構造的に著しくダイナミックなものだ。そしてこの全体構造の力動性は、全体を構成するすべての部分、一つ一つにまで完全に浸透する。例えば道元禅師の思想を見るとそれがよくわかる。このダイナミックな面目が見失われるなら、それはもう襌ではない。」(p140)
 実体験であることを強調した文をもう少しあげる。
     「およそこのような凄まじい実存了解を経て現成する「無」。それが襌的に体験された無分節なのである。経験界で人が出合う個々の事物に「本質」がないということを理性的あるいは理論的に理解することとは全然違う。もともと因縁によって成立したものだから、それ自体には独立した実体性がないはずだ、と理屈で結論することではない。事物の無「本質」性をこの、あるいはこれに類する、仕方で理解するだけなら、人は表層意識の領域を一歩も出ていなお。そして表層意識で)理解されたものは、何であれ、必ず有「本質」的に分節されている。「無」すら、この次元では、真の意味での無分節ではない。「無」という一つの特殊な有「本質」的分節である。所詮、表層意識は分節機能から離れることができないのだ。」(p155)
 だから、文字になったものは、真の自己を表していない。思考作用の産物の表層の言葉の羅列となる。解脱した、悟った、という喜こびなどない。表層の言語で説明されているもの(事実でないもの)を理解した喜こびしかない。自己は思考作用の奥にあって、表層の言語が対象にできない。 言語の対象は客観である。

 表層の「マインドフルネス」は、この根源の「無〇〇」を相対的に習うのである。マインドフルネスが何かの問題、不満、苦悩などの解決をはかるのであれば、そうなる。自己の根底の絶対無は無「問題」である。無「苦悩」、無「不満」である。 その根底の方向にいくマインドフルネスでよいことになる。 だから、深い哲学のない「マインドフルネス」は、違う方向へ行くおそれがある。カルトに利用されて縛られるかもしれない。誠実なものでも、ある限度以上の問題には切り込めない。だから、歴史的に、かなり強く警告した人々が多いのである。深い問題には、深いマインドフルネスでなければならない。レベルが合致しないと、ただでさえつらい思いをしているクライエントが貴重な時間と費用を奪われてしまう。
人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 16:28 | 新しい心理療法 | この記事のURL