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何を学ぶかがとても大切 [2014年11月19日(Wed)]

何を学ぶかがとても大切

 マインドフルネスは、アメリカのものも日本のものも、人間、自己の「哲学」が理論的な背景にな っています。
 人は、どのような理論、哲学を学び、身につけるか、とても重要です。「マインドフルネス」や瞑 想でもそうです。どこへいくマインドフルネスなのか。 どの階段までいくのか、殺人を肯定する思想まで含まれている瞑想なのか。
 親から「お前はだめだ、価値がない」と言われるとその子はそのような思想を持つかもしれませ ん。「お前は偉い、社会のためになる人間になれる」と言われ続けて育つ子はそのようになるか もしれません。 すべて、成人であっても、宗教、学問、マインドフルネスであっても、先達のもっている程度の哲 学、思想が強く影響します。

 井筒俊彦がいうのは、そのようなことです。

★言語そして学習したことで心を縛る

★言語アラヤ識に保存

 私は、支援を開始したのは、20年前からですが、襌に接したのはさらにその数年前でした。う つ病になってからでした。この30年近く、襌をする人、瞑想の実践家、襌・仏教の研究者に多数 接しました。同じように見えるのに、大変な相違があります。
 オウム真理教にも瞑想があったようですが、排他的、エゴイズムの哲学、思想をも含んでいまし た。 自分たちの王国の建設のためには、殺人を認める思想がありました。
 初期仏教は、釈尊と同じ解脱を得ることは、何度も生まれ変わらないとだめだという哲学、思想 になりました( 次の記事で、その部分をあげます)。これでは、大乗仏教や襌が主張するものより程度の 浅い瞑想になります。深いものを習得しようという努力がなされなくなるでしょう。指導者の哲学、思想がそこま でなのですから。
 それを大乗仏教が批判しました。特に実践を重んじた「唯識派」が、釈尊と同じようになれると主張し ました。そういう哲学を主張するからには、それを実現する瞑想実践が必要です。
 中国の唐宋時代の襌僧は、3,5,10、30年の瞑想で釈尊と同じ境地を得られるという 思想、哲学を持ち、実践しました。日本の道元、栄西、ずっと下って、良寛、白隠などの禅僧が いました。
 襌や仏教は、書かれたものを読めばわかるという主張(=思想、哲学です)をする学者が、昭 和から現代までおられます。専門家の見識です。

 こういうことは、その人が学習して身につけた思想、哲学です。井筒俊彦のいう言語アラヤ識 に保存された「文化」「言語の意味的枠組み」です。人は、これを持って見聞きし、考え、行動します。一度植えつけるとも う変更しません。他のほうがすぐれていると認めると、自分が不安になるからです。

 このことは、心理学や医学の学問にも言えるのです。一度、それぞれの立場の心理学や医学を学ぶと、その 色眼鏡で、人や情報を見るはずです。自分の学習した理論と違うものは無意識に排除し、合致 した言葉を選択的に抽出します。新しいものも、自分が学習した「意味的枠組み」、自己の理論 の色眼鏡で見てしまいます。同じ言葉を聞いても、違う解釈をします。 同じ経典、語録を見ても、自分の枠組みで探し、選択的に抽出、解釈し、都合が悪いものを排 除、無視します。人間はそのようにできています。自己安定、自己保身、自己存続の本能がある ためです。道元襌では「我見我執」と呼びました。私は「本音」と呼ぶことにしました。マインドフ ルネスを妨げるので、これにも気づき、名前づけ、観察、特徴、自他を傷つけるありさまを「マイン ドフルネス」すべきなのです。襌では、それを強く指導されるのです。言葉で形成した我見・我執(本音)に気づき、捨てたり、行動への発動を抑制したりします。

 マインドフルネスもさまざまな流派があります。どの哲学によるマインドフルネスであるかが、とて も重要です。知らず知らず哲学が植え込まれて、固い「意味的枠組み」を作ってしまいます。 自分のものが絶対最善と思いこんで、強い宣伝行動に出ます、押し付けます、他を認めない「傾 向を示します。(大田もそうしているではないかと思われるでしょうね。いえ、私は押しつけません。気が小さくて内気です。みだりには宣伝しません。困っておられそうな方に届く程度で控えめにおしらせさせていただきます。) また、大田のいうのは大田 のものではありません。道元、白隠などにあったものを西田、井筒らが発掘したものです。大田は新しいものを何一つ加えることが できません。すでに昔から日本にあったものです。かれらの哲学の絶対無はすべてを包含しま すので排他ではなく、すべてを受け入れます。この立場に立たないものは、排他的になります。 全てを包含する人間の根底の立場に立たないのですから。

  「マインドフルネス」も、あまり深入りしない段階で、さまざまなものを見て、そのうちに、自分の 人生、自分の職務に最も有用であるものを選びとるのがいいのです。一度思い込むと路線変更 がとても難しいのです。 若い、まじめそうな人が、特殊な思想を持つ集団にとりこまれていくのは残念です。 科学、学問といわれる心理学でさえも、「ある立場」です。絶対であるはずがありません。固執す ると、クライエントの自立、クライエントの解決を妨げます。マインドフルネスも同様です。ある立場 のマインドフルネスが最上ではありません。何でも、それで扱うと、クライエントを傷つけます。自 己洞察瞑想療法(SIMT)も同様です。

 すべての人が、自分の生活、経験、学習したことが、言語アラヤ識に、文化、思想、哲学、生き 方がプログラム化されて、習慣的にそれで見聞きし考え、行動しますから硬直した反応パターン になります。西田幾多郎がいうような、自己なくして見、自己なくして考え、自己なくして働く、こ れが最もエゴイズムのない立場ですが、難しいことです。宮沢賢治や金子みすゞ、その他こういう人々もそういうことを 描こうと務めた人だったように感じます。
人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 07:35 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL