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いのちをきざむ(2) [2014年11月03日(Mon)]
★日本的な深いマインドフルネスの探求の会
 =治った人、病気ではない人、自己評価の低い人、マインドフルネスの研究者、マインドフルネスの専門家、がん患者さんとご家族・・。
★マインドフルネス心理療法の研究発表大会
 =研究段階が終わり、臨床に適用中、発表会

いのちをきざむ(2)

 もう一つの写真をご紹介します。
90歳を越えたがんの人が、目がみえにくくなってきたのに坐禅して写経もなさっています。ジョン・カバット・ジン氏の本では、坐禅のことを「正座瞑想」と訳されています。

 正座瞑想は、カバット・ジン氏がいったように、「全体性」を一生かけて 探求します。 ボディスキャンは、痛みなどの感覚レベルです。ヨーガ瞑想や食べる瞑想などは、感覚と 行動レベルのマインドフルネスです。

 しかし、正座瞑想は、とても深いものです。感覚、運動は対象的なものに対するマインドフルネスですが、正座瞑想は対象的にならない自己存在のマインドフルネスです。 日本では、襌と言われてきました。カバット・ジン氏は、道元に学んでいます。全体性は、道元の「身心脱落、脱落身心」であると思われます。西田幾多郎、西谷啓治、井筒俊彦、小坂国継などがそういっています。

 この人も探求し続けています。初めて坐禅をしたのは19歳の時、戦前、戦争で外地に行く前、京都で坐禅したそうです。ずっと続けておられます。私とおあいしたのは、数年前です。
 この人は30年ほど前から、毎日、般若心経を写経されてきました。 最近、目が不自由になったので、文字数の少ない「延命十句観音経」に変えられた。 不自由な片目で近づけて書く。この血滴々の写経です。写したものは、ご家族が毎月まとめて、寺に奉納される。
 がん、目、足が不自由で、もう外出なさらない。しかし、坐禅、写経、足踏みを日課とされる。心境はいたって明晰。このような人のマインドフルネスは、当然、自己存在のことになる。 痛みだの、対人関係だの、仕事だの、うつ病だの不安障害、がんが治ること、などではない。 最も深いマインドフルネスとなる。カバット・ジン氏がいった全体性である。

 自我、言葉、主客、善悪、生死、評価のない根源に到れば、すべて(全体)が自己となる。すべて(全体)が根源の絶対無の現成した絶対有となる。相対有、絶対無即絶対有、すなわち、道元の哲学では対象的に見た身心→身心脱落・脱落身心である。言葉で 対象的に見られた身心、苦悩が実在するかと錯覚して苦悩していたが、自我を捨てるマインドフルネスを続けるといつか相対的身心が脱落する、無差別の根底にぶちあたり苦悩が苦悩でなかったとわかる、そして言葉を通さないでその脱落の直接 現成した身心で生きていく人、人格的自己の人となる。言語を通さない見方となる。最も深いところで生きているので、浅いところとは出入り自由である。

 がん患者、終末を予期する人が求めるのは、深いマインドフルネスでなければならない。

 今マインドフルネスが輸入されているが、日本には多くの日本人が探求して日本文化を形成してきた、最も深いものがあるのに、どうして日本のものを大切にしないのだろう。世阿弥、千利休、松尾芭蕉、良寛、宮沢賢治、金子みすゞ、東山魁夷、河井寛次郎、その他このような人たち(*)・・・など絶対無を通した芸術と思われる。

 私の1冊目の本は、意志的自己のマインドフルネスである。MBSRよりも深い精神疾患(うつ病、PTSD,パニック症、過食症、家族の不和など)などを扱う。2冊目のは叡智的自己のマインドフルネスの入門である。精神疾患ではない苦悩、ストレス、人生価値を扱う。ここまで、宗教レベルではない。 最期が人格的自己のマインドフルネスである。これは、全体性、絶対無、最も深いマインドフルネスとなる。カバット・ジン氏も人格的自己のマインドフルネスを記述されるのだろうか。 このレベルのマインドフルネスはまだ世界にはない。弁証法的行動療法のリネハンも「賢明な自己」といっていて、かなり到達が難しいといっている。意志的自己のマインドフルネスでさえも、受容してくださる専門家が少ない。
 輸入されるマインドフルネスには、人格的自己のマインドフルネスはないが、襌ではあるのである。公案によるものと、 只管打坐によるものである。しかし、両方とも一般の人ができるような援助法ではない。 現代の「マインドフルネ的方法」でできないか、研究する価値がある。多くの人が、死後のこと、自己評価で苦しんでいるから。
 多くの社会問題の援助は、宗教以前のマインドフルネスで充分であると思う。水平展開をすすめていかねばならない。しかし、日本の文化の中で生きている日本人のための深いマインドフルネス でないといけない苦悩もある。キリスト教的な宗教観によるマインドフルネスは、日本人には難しいだろう。内村鑑三、遠藤周作のように日本的なキリスト教を創った人がいるように、 西洋の二元観は日本人は受付けることが難しかった。この日本文化を捨てて西洋文化に染まること、全面合流は難しいだろう。 宗教レベルの一元的マインドフルネスは、日本人が昔からはぐくんできた、無私、無我、無心ということから生まれるだろう。これらの言葉は、対象的にみた私、我、心は、虚仮であり、そのような私を捨てて生きることが苦悩から離れて真に生きることだ、と日本の祖先はすすめてきたのだ。日本人がそういうマインドフルネスを開発すべきであることはいうまでもないだろう。 しなければならないことが山ほどある。難しいことだ。あと何年あるのか、いつ倒れるかわからない。同伴する人がいてほしい。
    (*)あこがれて探求したが得られなかった人、襌といわずに深い無私、無我に生きた人、仏教を芸術とした人を含む

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Posted by MF総研/大田 at 16:11 | 新しい心理療法 | この記事のURL