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言葉は実相を表さない=言葉による思考を抑制 [2014年10月30日(Thu)]

言葉は実相を表さない=言葉による思考を抑制

言葉に縛られる

 人は、言葉と言葉で学習したことに縛られる。学習された見方が 固定されて、別の見方ができなくなる。自分の見方、考え方が 正しいと思いこむ。いったんこの壁ができると、これを破ることは大変難しい。マインドフルネスの弁証法的行動療法のリネハンもそう言っている。  「言語にはそれぞれ独特の「現実」の区切り方があって、それらの無数の区切りが意味的単位 の稠密な網目になって人の心をしばり、一つのきまった世界像を意識に押しつけてくる。この網 目 を抜けるのは容易なことではない。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、p390)

 「人間は喋っているうちに、意識しないで、習慣の力で、つい自分の喋る言語の意味的枠組み に従ってものを見、ものを考えるようになっていく。 襌から見れば、人間はこの意味で言葉の奴 隷です。自由になまの、無制約の「現実」に触れるこ となど到底できないのです。自分の生まれ ついた言語によって規定された線に従って考え、行動 するだけです。」(p391)

 普通、人は自分が今生きていると意識するものを自分と思いこんでいる。 多分、それを「魂」と思いこんでいるだろう。これは、生まれて以来の習慣でそう思い込んだ のである。 西田幾多郎は、これは真の自己ではないという。襌もそういう。 だから、葛藤、闘争、苦悩が起きるのである。 ところが、この考えを変えるのは容易ではない。言葉で思いこんだ思想であり、宗教(自己の死 をこう思うという素朴な宗教である)である。 襌は、これを打ち破るという。 マインドフルネスの実践は、襌(仏教の実践)から生まれた。マインドフルネスには、禅の実践の 心得がすべて含まれている。襌には、さらに多くの心得がある。もし、マインドフルネスでわから ないことがでてきたら、襌を参照できる。マインドフルネスの多数の書物が出版されているのに、 実際の臨床に使える人は少ない。言葉による理解は、実際とは違うからである。マインドフルネスの深いものが理解されないのも、思いこみが強いからである。

 浅くマインドフルネスとは何かということ(仏教とは、襌とは、瞑想とは、も同様)をこうだと教えられてそうだと思い込むと、マインドフルネス(仏教は・・・、)はそんなものという思いこみが自動的に働くようになる。マインドフルネスに興味を持つ多くの人にあうが、 思いこみが根強く形成されていることを知る。固定観念が形成されないうち、最初が肝心であると思う。 マインドフルネスの発展も、楽観はできない。 学問研究が好きな人が多いようだから。学問はあくまでも対象的、思考レベルである、行動レベルではない、自己存在レベルではない。 がん患者の苦悩のような深い自己存在の消滅の苦悩は深いものでないと援助できない。そのようなマインドフルネスを真剣に開発普及したいという研究者は少ない。アメリカのマインドフルネスにはないからである。
 仏教が多くに分派して、すたれていった歴史をマインドフルネスも繰返すかもしれない。釈尊の原初のものは、その没後に、煩瑣なアビダルマという別なものになった。大乗仏教が起きたがそれも、現代では当初のいきいきとしたものを失ってしまった。現代の仏教に変質して書物で読むものになり、信者の現実の苦を援助する 社会的マインドフルネスのような実践をする専門の宗教者を見出すことは難しい。

襌の修行

 井筒俊彦は、襌を次のように説明する。これは、最もいきいきとした襌があった、中国の唐時代の襌である。ごくわずかに、現代にも伝わっているが、知られていない。とにかく、 最も深い襌である。

 「襌は、・・・言語の人間意識に対する影響力を徹底して否定的に見ることから始めます。 すなわち、言語の意味分節の枠組みを通して見られた世界は、「現実」の完全な歪曲以外 の何ものでもないと考えるのです。そして襌は、言うまでもなく、第一に、第一義的に、 修道であり、精神鍛錬の道であり、ここで精神鍛錬とは人間の意識構造を根本的に練りなおして 、今までかくれていた認識能力の扉をひらき、それによって今まで見えなかった事物の真相を掴 むことができるようにしようというのでありますから、当然のこととして、 ここで問題としております「現実」の言語的歪曲を払拭し、言語の分節の全然働かないところで、 ありのままの「現実」を認識させる方法を編み出してきたのであります。坐禅とは、言語的に言い ますと、まさにそういう言語否定への修行方法です。深い観想のうちに、言語分節の蹤跡が消え 去り、あらゆる事物の無が体験されるとき、そのときはじめて歪曲されぬ「現実」が顕現するという 考えです。」(p395)

 ここには、絶対無のありさまが説明されているが、 ジョン・カバット・ジン氏のマインドフルネスの心得は、これに「習う」のである。 氏も、「全体性」への入門であるという。絶対無である。 相対的、対象的に 見られる感覚などを言語的に「評価」しないし、あるがままにみる(=受け入れる)実践をする。 根源は絶対的無評価であるが、マインドフルネスの実践は対象的に見られたものを対象的に無 評価であるのである。言語で扱わないのも、思考の抑制という相対的な実践である。 根源は絶対的な無言語である。
 マインドフルネスでは、認知療法のように、一つの否定的な言葉、文章を 肯定的な言葉、文章で置き換える修練はしない。所詮、言葉は実相を表さないから。 マインドフルネスは、認知療法の理論と実際のズレを指摘している。このために、実相でないと改善できない問題には、認知療法の効果は限定的となる。まして、言語で表すことができない「自己」そのものの苦悩は扱えない。
 専門家はクライエントを自分の浅い枠組みにとじこめないで、井筒俊彦やV・E・フランクルがいったように、深いものへの扉をふさがないようにしなければならない。専門家には思いこみが働きやすく、収入や名声が得られると 自分の技術にうぬぼれて我執し(板橋勇仁氏が指摘)、クライエントを害する傾向がある。粟野氏も 自己洞察の低いものがあわれなクライエントを浅い枠組みにとじこめる傾向を指摘した。 板橋勇仁氏も西田哲学の研究からこれを警告している。( 専門家の我執
 とにかく、人間の我執は根強くしつようで、根底の我執のないところはとても深い。 マインドフルネスの「研究者」が、深いものへの「扉」をふさぐと、 クライエントの救済を妨害する。自覚なしに、救済を妨害することになるのである。
    (たとえば、精神科医が薬物療法のみを絶対視し、患者が「マインドフルネス心理療法を受けてもいいですか」とたずねられた時に、よく知らずに「だめだ」といえば、治ることを妨害することになる可能性がある。心理療法で治り、自殺しないですむ人もいる。だから、希望者には認めていただきたい。)
 実践者がいないと、マインドフルネスも廃れる。書物だけがあふれて現実の苦悩を援助する仏教の実践を提供する僧がほとんどみられない(*)、仏教と同じことになってはいけない。 マインドフルネスは、仏教の歴史に学び、臨床できる専門家を育てるべきである。
    (*)実はごく少数おられる。うつ病で苦しんだ私が今生きているのもそうした稀有の師のおかげだから。不思議な縁としか思えないが、その師も亡くなられた。

専門家、研究者は仮説にすぎないのに絶対視して固定した見方になることを 避けられない
  • 専門家の還元主義、画一主義
  • V・E・フランクルが学問におけるエゴイズムを批判
  • <目次>人格的自己のマインドフルネスへ
  • Posted by MF総研/大田 at 21:39 | 新しい心理療法 | この記事のURL