生死のない人の根源 [2014年10月29日(Wed)]
生死のない人の根源釈尊やその弟子たちは、もう輪廻しないといった。しばらく後の、初期仏教教団の哲学とは違っている。別の哲学に変化した。道元、東洋哲学では、死についての決着がつきそうな言葉がある。 人の根底は生死なしである。経験的世界は、「生あり、死あり」であるが、 「萬法ともにわれにあらざる時節」があり、「生なく滅なし」である。道元の『正法眼藏第一 現成公案』の中に、次の3つがあった。 A「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。」 B「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。」 C「佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。」 Aは分節(T)であり、Bは「無分節」であり人の根底の真であり、Cは無 分節が現成したもの、分節(U)である。 井筒俊彦はこれを次のようにいう。 「電光のごとく迅速な、無分節と分節との間のこの次元転換。それが不断に繰り返されていく。 繰り返しではあるが、そのたびごとに新しい。これが存在というものだ。 少なくとも分節(U)の観点に立って見た存在の真相(=深層)はこのようにダイナミックなもので ある。だが常識的見方、つまり分節(T)の見方は、この過程に「本質」を持ちこんでくるので、こ の真相が見えない。「本質」を拠点として、そこに同一の花が咲き続け、同一の鳥が啼いている ようにどうしても見えてしまう。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、P171) 分節(T)は、無分節の一部を切り取り、言語化して真相から離れる。 しかし、分節(U)は、無分節の全体である。 「分節(U)の存在次元では、あらゆる分節の一つ一つが、そのどれを取って見ても、必ずそれ ぞれに無分節者の全体顕現なのであって、部分的、局所的顕現ではない。全体顕現だから、 分節であるのみかかわらず、そのまま直ちに無分節なのである。」(p172) マインドフルネスを世界的に有名にした、ジョン・カバット・ジン氏が道元を理解しているとすれ ば、ジョン・カバット・ジン氏が、「全体性」は、道元のすべてが我にあらざる時節のことではあるま いか。「最も大きな違いは、このプログラムが、 ”全体性”を直に体験するための扉を提供してい る」という。「体験」である。絶対無の体験であはあるまいか。 このことを、マインドフルネスの研究者は理解しているだろうか。 ジョン・カバット・ジンのMBSRは、道元、東洋哲学の絶対無の真相を「習う」、まねするのであろう。絶対無は対象化されない絶対無対象であるが、痛みの緩和には、対象的なもので習うのであろう。これが、ジョン・カバット・ジンのマインドフルネスの理論的根拠ではないか。 我々は、生き続けているのではなくて、瞬間瞬間、生死がないのと生死のあるとを繰返している。西田幾多郎は、過去現在未来が直線的に流れない「円環的限定」が奥で起きており、表層では、生から死へと直線的に移り行く「直線的限定」といった。
(それはすべてを生む神にたとえられる。神の肖像として人Personというものが限定せられる。) 深層では自己が死に、そこから自己の生の意識が生まれる 深い苦悩の克服のための実践法は違うものが襌として、日本にはある。全体的、絶対的一者の自己の根源を体験する実践は西洋にはないだろう。日本人は死の恐怖、死後のことの絶大な関心がある。マインドフルネスを研究すべきである。 ![]() |