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対象的自己=魂が死後も存在すると議論 [2014年10月28日(Tue)]
この連続記事は、「宗教レベル」です。2つの本のマインドフルネスは宗教レベルではありません。対象的なことを扱っています。うつ病、不安症/不安障害、過食性障害などは対象的な悩みですから、浅いマインドフルネスで解決します。しかし、がん患者さんの死の不安、低い自己評価などの苦悩にかかわる自己存在は対象的なものではありませんので、「宗教的」になります。宗教的マインドフルネスは「宗教」と同じではありません。

対象的自己=魂が死後も存在すると議論

 立花隆氏が医師の死の哲学を批判しているので、これに関連することを東洋哲学でみてみましょう。医師が死後の世界があるという特殊な哲学?宗教?を持つと、厳しい倫理も同時に持たないと、死の瀬戸際にいる患者に押し付けるおそれ、または暗に同意することを求めるプレッシャーをもたらすおそれがあると思います。どうせ死後があるので、患者や家族に治ること、生きることをあきらさせる、自身が治すことに全力をあげないであきらめるおそれなどです。 がんも告知してほしいですが、死後のことも真実が知りたい。それで、現世での生き方が違ってきます。脳科学の進展を期待します。
 脳死の判定の後にも、微細な脳活動が記録されたと、立花氏はNHKの番組で紹介しました。完全な死ではなかったと。科学といえども、まだ研究途上です。
 なお、子どもには、死んだ親たちが天国から見守っているということは賛同します。待機説法?です。何が何でも自分の我見を押し付けるのは、我執になります。苦しめないようにしたいものです。

 襌、大乗仏教や西田哲学も参考になります。これらは、対象的に意識されたものを真の自己とはみていません。<死後>、<天国で>も生きることを希望する「魂」とは何でしょうか。死後ではなくて、<今>、<ここで>生きているように意識される「魂?自分?」とは何なのでしょうか。

 魂とは何か、自己とは何か、対象的に意識されるこの自我意識としてのものをその探求もせずに、死後のことをいうようである。 鎌倉時代の道元禅師は、身体と魂を分ける思想をきっぱりと否定した。 これは、襌であるが、西田幾多郎や井筒俊彦は賛同する。立花氏も、この哲学をご存知だろう。

 日本には現代に,世界的に、通用する哲学者、道元禅師がいた。 鎌倉時代である。マインドフルネスの ジョン・カバット・ジンも道元を尊敬している。鎌倉時代の人が、何とすすんだ哲学をもっていたことか。 基本的には大乗仏教全般がそうである。

 道元は、『正法眼藏第一 現成公案』 でこういう。

 「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。  萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。  佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。  しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。  自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟 するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸 佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛 を證しもてゆく。」

 ここに、道元が、自己の真相である根底には、身体と対立した主体だけの基体はないことを示していると いうのが、哲学者の解釈である。
A「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。」
B「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。」
C「佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。」

 Aは、言語で解釈した見方である。言葉で本に書かれた仏教である。Bの実相を知らない。
 Bは、絶対無、絶対無分節、絶対無評価の自己の実相である。万法とはAの言語化したものすべてである。さまざまに言語化された教説がある。つまり言語で対象的に構築された、客観である。そのすべてが、我にあらざる時節、客観がない、主客の対立がない瞬間に実相である。∞である。
 Cは、根底の絶対無の現成である。すべてのもの/∞である。絶対無の現われの現事実。Aは、虚構であるが、Cは実相である。

 次の井筒俊彦の言葉に、自己は主客の対立のない前がある事を言う。  このような自己の根源を知らずに言語的に主客を分裂させて、意識された主体的側面を、自分と意識する人が多いだろう。道元は坐禅をすすめた。 対象的な言語、思考では絶対に体験できない自己の実相。言語を越えて実践する坐禅を道元はすすめた。 現代は、同様のところを、マインドフルネスの瞑想の実践がすすめられている。 死後のことを気にするひとが多いのに、宗教や心理学、医学が明確にしてくれないから、 現代のひとが迷っている。現在の職務、現在の人生に専念できず、死後のことに多大の労力を費やす人が多い。死後を保証するという「カルト」に善良な人が利用されたことも何度も繰返された。 がんの告知をされた人が自殺するのも、「この生が尽きる」という苦悩が関係する。 せっかく恵まれた「ここ」の「自己」の生命を活かしきれない。

 つらいことをあるがままに観察して、意義ある人生を生きていく「マインドフルネス」。 その探求すべきものは、感覚や身体の動きだけではない。自己存在そのもの、魂と意識しているものも「マインドフルネス」しなければならない。そこがわからずに、苦悩している人が多いのだから。虐待されて、自己が無価値と思いこまされた人、物であるかのように家族から暴力を振るわれて傷つき自殺していく人もいる。 専門家という人達のエゴイズムもすさまじい。善良な人達が救済されていない。 死後も大切であるが、この世に苦悩が多すぎる。この世で、この人生で、生きているように意識されている「自分」とは何か。日本にあったのに、見ようとしなかった。現代、マインドフルネスがアメリカで起きたことは幸いである。舶来ものを好む日本人。ジョン・カバット・ジンが日本にあったものを発掘してくれたので、世界中で注目されている。舶来でなく、すでに日本には千年もの間、追求していたことであるのを多くの人が知ることができるときが来たのである。再び、浅い、言語的な操作、実践されないマインドフルネスにしないほがいい。文字化されたものを読むだけではわからない「自分」。マインドフルネスの実践が必要である。
  • <目次>人格的自己のマインドフルネスへ
  • Posted by MF総研/大田 at 19:17 | 新しい心理療法 | この記事のURL