CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«<目次>人格的自己の「マインドフルネス」へ | Main | 対象的自己=魂が死後も存在すると議論»
転識=根底を知らない見方 [2014年10月27日(Mon)]

転識=根底を知らない見方

 前の記事に「転識」という言葉があった。 西田や多くの襌者たちによれば、 人の根源は評価、善悪、自他の区別、生死、自己と対象の区別などのないもの (これが真相、真如) であるが、これを知らず、 それを素通りして、すぐに言語、学習したものを基準にして さまざまなものに分化していく。真相(存在リアリティ)から離れているという。根底の実相 を主観と客観に分けて意識し、対象的にみることを「転識」といっている。 この時に、その人が育ち、学習の中で獲得した思想、立場、思い込みによって 解釈する。すべて、真相ではないという。とにかく、根底の絶対無がわからないからこういうことが 起きる。

  「そのとたんに根源的絶対無分節のリアリティは分裂して、 主・客の対立が現われる。主・客の別が現われたまさにその境位に おける意識を「業識」と呼ぶ。存在分節の初段階だ。 次に、分裂した存在の主体的側面と客体的側面とが、 一方は我意識、他方は意識から離れ独立した 対象的事物の世界として確立され、「私が→花を、見る」 「花が→私に、見える」という形での経験的世界が 現象する。こうして成立した経験的意識を術語的に「転識」 と名付ける。転識とは、すなわち、存在リアリティをさまざまに 分節し、無数の分割線を引いて個々別々の事物を現出させ、個々 別々なものとして認知されたそれらの事物の間を転々と動きまわる「盲 覚」である。意識展開の全プロセスを通じて、このような盲覚の始点 をなす「業識」が決定的転換の一線を引くものであることは言うまでも ない。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、p126)

 目次の下の「人格とは何か」のなかでいくつか、根源について西田幾多郎の説明を見た。 瞬間、自己はなく(=死)すぐに自己と世界を分ける(=生)という、その現場である。時も消えそし て時が生まれる。 生まれるのが転識の時であるが、自己/∞、生/∞、時/∞とは見ずに、 根底の∞、無分節、無評価を知らない。

 死後の魂がどうなるか話題がつきないが、 生きているという時の根源が自覚されれば、迷うことはなくなるはずである。 死の問題で真剣に探求したい人のためのマインドフルネス があるべきである。現代のマインドフルネスは 封建社会の宗教的マインドフルネスでは、現代人を納得させられない。 その時代の社会的苦悩であるとしたら、その死をあるがままに観察するマインドフルネス が必要である。自己の死を苦悩する、その苦悩をあるがまま(実相)につかみたいだろう。
 西洋にも自己存在の深い哲学があったようである(井筒俊彦参照)が、 その根底の実際把握の実践まであるのは、日本の襌だという。 とすれば、やはり、終末期、死を気にする人のための、マインドフルネス的探求実践があるべきで ある。できるかどうかはわからないが、これほど知性が発達しているかのように見える日本で、専門家が開発できないのははがゆい。死後のことを気にする人が多いのに。
 襌の手法は日本にある。公案によるもの、只管打坐によるものである。 これを参照して、社会的マインドフルネスを開発できないだろうか。(私は、只管打坐 であって、マインドフルネスではなかった)
  • <目次>人格的自己の「マインドフルネス」へ
  • Posted by MF総研/大田 at 18:19 | 新しい心理療法 | この記事のURL