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言語アラヤ識に保存 [2014年10月26日(Sun)]
◆2つの本

言語アラヤ識に保存

 西田哲学や道元、哲学者などが、人間の根底は、絶対平等で、絶対無分節、絶対無評価であるというのに、宗 教でも、思想でも、生き方でも、心理的手法でも、いったんこうと思いこんだことは、あとからなかな か変えようとしません。刷り込みが根強く、新しいもの、すぐれたように見えるものを受け入れようと しません。団体では、伝統的な解釈を固守して、新しいものをいうのをたたきます、排除します。宗教間の融合はとても実現しそうもあ りません。なぜそういうことが起きるのでしょうか。

 次は前に見ました。

 「言語にはそれぞれ独特の「現実」の区切り方があって、それらの無数の区切りが意味的単位 の稠密な網目になって人の心をしばり、一つのきまった世界像を意識に押しつけてくる。この網目 を抜けるのは容易なことではない。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、p390)

 「人間は喋っているうちに、意識しないで、習慣の力で、つい自分の喋る言語の意味的枠組み に従ってものを見、ものを考えるようになっていく。 襌から見れば、人間はこの意味で言葉の奴隷です。自由になまの、無制約の「現実」に触れるこ となど到底できないのです。自分の生まれついた言語によって規定された線に従って考え、行動 するだけです。」(p391)

 人の深層に言語や思想や手法が保存されていて、これによって判断しています。道元が「我見 ・我執」というものもこのたぐいでしょう。 新しいものは、受け入れにくいのです。

 「ある一つの文化共同体に生まれ育ち、その共同体の言語を学ぶ人は、自然に、それと自覚す ることなしに、その文化の定める「本質」体系を摂取し、それを通じて存在をいかに分節するかを 学ぶ。学ばれた「本質」体系は全体的に「文化的無意識」の領域に沈殿して、その人の現実認識 を規制する。さきに私が、「言語アラヤ識」と呼びたいと言ったものがそれだ。これを特に アラヤ識 と呼ぶのは、人が普通それの存在に気付かないからである。気付かないけれども、それは時々刻 々に働いている。「転識」が働くとき、必ずその底に「言語アラヤ識」が働いている。その働きがあ るからこそ、ものが何々として存在するのだ。ものが何々として存在するのは、「言語アラヤ識」の 暗闇から、そのつど、ある特定の「本質」が喚びさまされてきて、その意味的鋳型で存在を分節す るからである。」(P130)

 この言語アラヤ識に刷り込まれた見方は強固であり、すさまじく執拗である。

 「「言語アラヤ識」の深みから自然に生え出てくるとしか言いようもないような「本質」。無意識の所産であればこそ、経験的意識にからみつくその執拗さは凄まじく、それを払拭することの困難さは想像にあまりある。つまり、経験的世界は、どうしても、さまざまに分節された個々別々の事物の集合として認識されるのだ。」(p131)

 個人がその学び、本、師からの言葉によって無意識に刷り込む。そ れぞれ異なることが多い。仏教でも、釈尊のもの、初期仏教、大乗仏教と異なり、その大乗仏教のなかでもまちまち で、日本仏教も宗派によりまちまちである。詳細にみると、個人によってバラバラとなっている。ある程度の集団的な共通の解釈をしようということになってい る。しかし、個人差もある。井筒俊彦が「文化的無意識」というものである。 その解釈、分節にそって考える。 仏教という宗教でさえも、バラバラであることが、言語アラヤ識のあることの証拠である。 言語アラヤ識は強固で執拗であるから、 反社会的団体、カルトをいったん信じた人も、脱会が困難である。

 このようなことが「マインドフルネス」の分節、定義にも起きる。いったん、これこそ「マインドフルネ ス」だと思い込みが強く、柔軟性がないと、その基準でもって瞬時に解釈されるだろう。 別のマインドフルネスを理解できないだろう。 ジョン・カバット・ジンも「全体性」の深い哲学を持っている。根底は絶対無評価、絶対無分節(言語、本質がない)である。幸いに、マインドフルネスも一つでなく、いくつも流派があってよかったのである。一つに原理主義者のように固執すると、応用領域が狭くなってしまう。 マインドフルネスの定義を柔軟性のないものに、一つに言語化しないほうがいいのである。
 しかし、やはりマインドフルネスも分派することは避けられない。初期仏教、曹洞襌、臨済襌をした人、欧米の哲学が好きな人、襌をしたことがない人、襌を嫌悪する人、他の心理療法の視点から解釈する人、・・・。曹洞宗、臨済宗の中でもまた解釈がバラバラである。根底の絶対無、絶対無分節、絶対無評価を認めない人もいる。襌をした人も浅い哲学の襌から深い哲学の襌まである。 「文化」というものがまちまちである。文化に影響された見方しかできず、マインドフルネスもさまざまなものになる。
 そうなると、なぜ、マインドフルネスの手法の心得に、無評価、無言語化、思考の抑制、エゴイズム(本音と名づけた)の気づきなどが重要であるかの理論の裏づけがなくなる流派も出てくる。 自己洞察瞑想療法(SIMT)では、根底が絶対無評価、絶対無言語、絶対無分節、絶対無エゴイズムであるから、それに習うのである。理論的背景が東洋哲学、なかんづく、西田哲学である。それは、道元とほぼ類似することを、西田幾多郎、西谷啓治、井筒俊彦などが指摘している。初期仏教は大乗仏教から批判されたように、自己の根底の哲学が異なる。
 マインドフルネスの理論がばらばらであるが、違って損するのは、支援者になろうとする人やクライエントなのであるが、どの「文化」によるか個人の自由であるから、避けることはできない。「文化」が違うと、マインドフルネスの理論も手法も違ってくるので、 適用できる問題が違うであろう。その点は長所になるだろう。だから、 マインドフルネスを学ぼうとする人は、外形の形式で選ばずに、自分が活用しようとする領域にふさわしく、哲学、理論、手法を参考にした実践をよく検討することになるだろう。得意領域が異なってくるだろう。
 マインドフルネスを用いる支援者は、アメリカの開発者もいうように、自分を自己洞察すべきであろう。粟野氏も自己洞察の低い者がクライエントを浅いところにとじこめる傾向を批判しておられた。マインドフルネスを習得して自分の場で活用したいと思う人がエゴイズムに気づかないと、クライエントを傷つける。アメリカのマインドフルネス者も 支援者になる者は、自己洞察瞑想をたくさんするように主張している。体験のない、いい加減な受講ではクライエントを充分な程度まで支援できず傷つける。自殺という死の淵にいる人にあうのだから、講座を行っているが、課題をきちんとしない人には、資格を認定できないことにした。思いがけない事態が起り、年々、認定条件を厳しくせざるをえない。石巻の反省により今期はさらに厳しい状件になる。2015年からさらに厳しくなる。 事前に公表するので、その厳しさから受講希望者が減少するだろうがやむをえない。また、受講してみて、1,2回で、ついていけないと感じた人がやめやすいようにしたい。少数でもいい、うつ病などで苦しむ人やご家族から信頼されるほどのスキルを持つマインドフルネス者が現れることを期待したい。

Posted by MF総研/大田 at 14:19 | 新しい心理療法 | この記事のURL