CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«真正面から実践的に取りくんだ襌 | Main | 言語アラヤ識に保存»
言語そして学習したことで心を縛る [2014年10月24日(Fri)]
★新刊『 不安、ストレスが消える心の鍛え方――マインドフルネス入門』(清流 出版)が発売になりました。『anan』で紹介されている本です。

言語そして学習したことで心を縛る

 西田幾多郎は、襌が理解されていないと言った。その後も たいして変わっていない、今もそうであろう。 襌をかじった人は、「襌とはこれこれこういうものだ」 と言葉でしゃべる。しかし、 言語で理解した襌、それでは襌にならない、と襌者や哲学者はいう。 「マインドフルネス」 も初期仏教に始まったが、それは哲学的に浅いと大乗仏教から批判された。 襌も基本は大乗仏教の立場だ。現代の哲学者、西田幾多郎、西谷啓治、井筒俊彦などが大乗仏教や襌 の哲学をかなり深いとした。となると、それに導く手法も大乗仏教や襌などにあるはずだろう。こんな事情であるから、 「マインドフルネス」の定義は初期仏教の定義にとらわれないほうがいい、と私は思う。 現代の一般人が救済されるマインドフルネスの定義にしていく必要がある。社会での実践が弱い、哲学的にも浅い、真剣にやっても一生で解脱できないという。そんなはずがないと、 すでに千5百年も前に、大乗仏教から批判された初期のマインドフルネス。しかし、大乗仏教も襌も昔のままの手法では現代では、一般人がするには難しい。 宗教に学び、宗教を越えていかなければならない。さもないと社会的実践の弱かった宗教の哲学と手法に縛られる。 現代の社会に貢献できるように、適応して変化活用しなければならない。

死後存続してほしいという「魂」とは何か

 言語で説明しないと方向も方法もわからない。しかし、必ずしも言語でわかるのがいいというわけではない。仏教、襌は、自分というものは言葉で理解できるものではない といってきた。自己は対象的ではないために、対象を名前づけする言語では把握できず、実践が必要である。ACTも考えられた自己は「概念としての自己」であるとして否定して、「文脈としての自己」を提案した。(しかし、それも東洋哲学でいう深い自己とは異なる)
 仏教は自己を探求したものである。 仏教でいう自己は「魂」と同じなのか違うのか深く探求する人は少ない。「魂」が行く 死後はある、天国に行くなどというが、生きている時の自己、魂を厳密に定義しているわけでもない。 この手の本がベストセラーになるので、関心を持つ人が多いようだ(*)。信じるしかない宗教問題である。
    (*)(ジャーナリストの立花隆氏が「「口アングリ」とあきれている。鎌倉時代の道元も、こういう身体と心(魂)とを分ける宗教的思想を否定している。最近の医師も深い哲学的な探求がされていない。この問題は、人格的自己レベルのSIMTの講座で議論する。)
 自己、魂とは何かをあきらかにせずにおいて、考える自分、行動する自分、自我のそのままの自己が死後も存続する、しないと議論しているように見える。東洋哲学、襌、マインドフルネスは、真剣に それを探求する。MBSR,ACT,弁証法的行動療法、自己洞察瞑想療法(SIMT)が、それぞれの哲学から、さまざまな自己を提唱している。その結果、どの専門家になるかで、その哲学を言語で学び体験らしいこと(それさえも対象的に見たものが多い)もして、それが最高だという強固な信念ができてくる。ただし、哲学が浅いと、浅いところにクライエントを閉じ込めることになる。悪意がなくて、抑圧する結果になる。井筒俊彦氏が、言語、思考、文化(学習した心理学、仏教学などの理論もこれになる)による縛りの構造を説明している。

言語で理解した枠で縛られる

 自己は言語による思考作用の対象にはならない、その根底になるので、階層が違う、と襌、西田哲学、井筒俊彦、日米のマインドフルネスはいう。
 人は、自分が使う言語、生育した文化、学習した理論の枠内で理解しようとする。 「仏教の瞑想とはこれだ」「襌はこういうものだ」「マインドフルネスとは・・」ということを言うが、各人みな違った解釈になる。 それぞれの人が、書物や師から学習して、 それぞれの人の背丈の枠での言葉による解釈をする。そして、強固な信念となっていて、 容易に変わらない。 長くやった人ほど、自分のものに執着する。 執着であるが、それに気づかない。専門家ほど執着する。
 人前で喋りたがる。他者の話を聞こうとしない。マインドフルネスには、あるがままに見る聴くという要素もある。 他者に傾聴する時は、情報の受容局面であるから、黙って聴く人は、新しい情報を受けるので成長がある。しかし、語る局面は行動局面であり、自分の現状を顕示する局面だから、しゃべりたがる人は自分の持たない情報を聴こうとしないので、成長がない。この弊害におちないように、 道元禅師は、発言したくなったら、「発言するのが本当に自他のためになるのか」を3度考えてから、発言せよといった。襌の探求は知識ではないから知識のひけらかしはやめよといった。 すごい人にあったことがある。座談の集まりで多くの人が喋る中に、一言も発しないのだが、師は別な時に「しゃべらない人が真剣にやっているのだ」と暗に賞賛していた。
 集まりで、みていると、すぐに発言するひとがいるが、マインドフルネスの実践になっていないことになる。発言欲求,自己顕示欲、重要人物と思われたい欲求に気づき観察しないうちに発言行動している。 マインドフルネスの専門家でない人のほうが黙って聴いているのは、マインドフルネスの実践になっている。 マインドフルネスの専門家でない人が、自分の体験や考えをしゃべるのは、マインドフルネスとは無関係である。

聴きたいと心を開いているところで喋る

 襌の相当の深い境地の人がいたが、あつまりでも黙っている。「どうしてしゃべらないのですか」と聞くと、 「襌者は問われない限り、喋らないものだ」と言ったエピソードが襌の書物にある。 聴きたいというこころの体勢になっていない人々に向かってしゃべっても、受け入れられず聞き捨てられて何の役にも立たないことが わかっているからだろう。しかし、聴いてくれそうもない公衆の中で辻説法した偉大な宗教者もいたが。その場合は、1万人の中に、2,3人くらいは聴きとめるひとがいるはずだという 期待はあるのだろう。聴いてくれるごく少数の人に喋っているのだろう。

専門家も専門に執着しては枠にはまらない外が見えない

 マインドフルネス、襌などの解釈も実践も異なり、専門家は自分の思想、哲学、手法を絶対視する傾向(煩悩、本音)があり、気づきにくい専門家がおちいるエゴイズムの傾向である。 生きがい、収入、名誉を得た場合、特に自分のものに執着して、社会、クライエントを傷つける。 哲学研究者の板橋勇仁氏(「歴史的現実と西田哲学」)が指摘した専門家のエゴイズムである。精神科医の粟野氏の言葉もみたことがある。他のもっといいものをさがそうとしない、他の人の解釈、他の手法を聞こうとはしない。そのような微妙な心理にも気づき観察し、適切な行動をしなければならない。
    板橋勇仁氏
     専門家は周囲を人をコントロールにおきたがる欲望、偉いと思われたがる欲望を持つので周囲の人を縛る傾向がある。
     「むしろさらなる差配への欲望を誘うものとして「悪魔的に迫り来るもの」なのであり、それは「我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、我々の魂を殺すのである」
    粟野医師
     (心理、精神関連の職業を持つ専門家の同様の縛りについて警告)
 自分の見解への固執は、これから、深いマインドフルネスを開発していく時に問題となる。なぜな ら、その自己、マインドフルネスの哲学解釈が浅いと、クライエントを浅い実践、浅い自己観に閉じ込めてしまうからである。あなたは、このマインドフルネスをしなさい、この程度ですよ、と専門家と称される人から何度も言われるのだから。 これがすばらしい、と何度も「専門家」から刷り込まれると、そうか、と信じ込んで、もう別のところで学ぼうとしない心になりやすい。いったん刷り込まれると、それを破るのは難しい( 弁証法的行動療法のリネハンもいう ⇒こちら)。ここにも 言語、それによる思想哲学の問題が起こっている。

 マインドフルネスではこうできる、こうするという。これに気づき、これを観察するという。対象的に 見られるもの、それは浅いものなのだ。自己の真相は、言葉によって表現できる対象的なもので はないからだ。それなのに、その程度のものだと教え込むことになる。 支援者がクライエントの救済を抑圧してしまうおそれがある。
 そういうことが、仏教の歴史で繰返されて、新しい仏教が起り、仏教は批判と拡散の歴史であっ た。初期仏教は、釈尊のものが見失われて今生では釈尊と同様の悟りは得られないものという解 釈になり、大乗仏教から批判されるものになってしまった。

深層で想像を超えたことが起きている

 人の深層で想像が難しいことが起きている。

 「言語にはそれぞれ独特の「現実」の区切り方があって、それらの無数の区切りが意味的単位 の稠密な網目になって人の心をしばり、一つのきまった世界像を意識に押しつけてくる。この網目 を抜けるのは容易なことではない。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、p390)

 「人間は喋っているうちに、意識しないで、習慣の力で、つい自分の喋る言語の意味的枠組み に従ってものを見、ものを考えるようになっていく。 襌から見れば、人間はこの意味で言葉の奴隷です。自由になまの、無制約の「現実」に触れるこ となど到底できないのです。自分の生まれついた言語によって規定された線に従って考え、行動 するだけです。」(p391)

 人は「自分の生まれついた言語によって規定された線に従って考え、行動 するだけ」である。言語に規定された宗教や科学といわれるもの(心理学、哲学、マインドフルネス心理学(?)も)を学習して、それの線で考え、行動していく、クライエントに教えていく。

 マインドフルネスも自分なりの解釈に縛られているという限界を自覚していないとクライエントを閉じこめてしまう。 襌は、そういう縛り(「言語で分節した世界」)の心理を、言語によらない実践によって縛りのない自己の根底(∞)を把握し、それを基礎にした新たな世界(世界/∞)を作っていくものだという。そうなると、「つまらない」「低い」「無価値」「嫌い」と言語で規定していた自己はなくなるはずである。さまざまな問題で苦しむ人の多い現代に、襌、大乗仏教、西田哲学などから マインドフルネスとして学ぶものが多いようだ。そのために、研究しなければならないことが多い。
分節モデルs2.jpg
Posted by MF総研/大田 at 22:40 | 新しい心理療法 | この記事のURL