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人格的自己の根源は絶対無評価、絶対無エゴイズム [2014年10月22日(Wed)]

人格的自己の根源は絶対無評価、絶対無エゴイズム

 マインドフルネスにはそれぞれ哲学がある。なぜ、マインドフルネスの心得がいいのかは哲学(東洋、西洋) からの要請である。アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)は、行動分析学という西洋哲学であるという。しかし、ジョン・カバット・ジンや自己洞察瞑想療法(SIMT)は東洋哲学である。ジョン・カバット・ジンは、道元を尊敬しているという。 根底に一生探求すべき「全体性」があるというが、西田哲学がいう「絶対無」、大乗仏教でいう、空、真如、仏性だろう。華厳でいう「一即一切、一切即一」の「一」だろう。 日本の哲学者・宗教者道元はこういう。  「仏道を信ずる者は、須らく自己本道中に在って、迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。」 (道元)

 井筒俊彦は、自己の根源を「絶対無分節」「絶対無本質」という視点から考察した。(「意識と本質」岩波文庫)。
 この自己の根源は、古来、さまざまな視点から言及されている。私らは今、現代に貢献できる社会的マインドフルネスということを考えている。マインドフルネスの心得のなかに、「無評価」がある。それがどこから出てきたのか。道元の上記の言葉をみていただきたい。 無評価である、ただし、「絶対無評価」である。対象的なものの無評価ではない。言葉もなく、自分も世界も分かれる前、すべての存在が分かれる前、もちろん善悪など評価はない。 高い低い、自己、評価などない。 これを自覚して、これが根底にあると了解したものが人格的自己である。 このレベルのマインドフルネスを実践するのが人格的自己のマインドフルネスである。同等の「思想」を主張する宗教や哲学は西洋にも他国にもある(井筒俊彦)が、その具体的実践は日本にしかない。(次の記事、井筒俊彦の言葉)
 日本には、このレベルの心の救済が遅れている。学校や職場でいじめられる人、虐待された人、DVされた人、パーソナリティ障害にみられる見捨てられ不安(自己評価が低い)、性犯罪の被害者、がん告知された人の心のケア・・・。心の病気やさまざまな社会問題の解決のためには、絶対無評価を「習う」のがいいのである。まずは、入り口として、対象的に意識された感覚、症状、環境、状況を無評価で観察する、相対的無評価である。この段階が意志的自己レベルのマインドフルネスである。これに習熟したら、対象とならない自己について、無評価の修練に入る道が日本にはある。

 マインドフルネスの心得の一つに、みだりに思考しないことがある。これは、対象的なものを言語で回転していくのである。言語で思考し続ける苦悩の状況である。また、自分と他者を苦悩させる結果になるエゴイズムの心もあるがまま観察し、欲求のままに行動化しないこともマインドフルネスである。 道元の言葉に、これも含まれている。「我見我執を捨てる」というが、自分の立場の固執、おしつけで、苦しめる。道元のことばは、絶対的無評価、絶対的無言語、絶対無エゴイズムの立場からの教えなのである。「言葉/∞」であるから、わかりにくい。西田哲学もわかりにくい。 我々の心の病気や対人葛藤は、相対的、対象的なことであるが、その解決は、自己の根源の方向の実践を「習う」ことが方針となるのである。

 マインドフルネスは、意志的自己レベルのマインドフルネス、すなわち相対的無評価、相対的無言語(解決のない思考は抑制)、相対的無エゴイズム(本音に気づき発動させない)を習うことで解決することが多い。それでも解決できない深い問題は、その解決になるマインドフルネスが 東洋に、日本にはあるのである。叡智的自己、人格的自己のマインドフルネスである。
 「自己はもともと絶対無評価、絶対無分節、絶対無エゴ=の道中に在って、迷いも困惑もせず、苦悩を妄想 せず、間違いもなく、増減なく、誤謬ない」 (道元)のだ。これを習うのである。すると、それに近づく。評価しない人になる、苦悩の思考をしない人になる、エゴイズムを押し付けない人になる。それがすべての人の根源であるとわかる。すべての人が根源的人格を持つ存在として、自分とすべての他者を尊重する。医師や心理士、さまざまな団体、自分のスキルで救済できないレベルのクライエントの立場にもなれるだろう。自分が救済できるスキルを持たないことを申し訳ないと思うだろう。自分のスキルで救済できず苦悩する深い立場で見る人に、自慢、自己満足などありえない。専門家は自分の技法に執着して、クライエントをとじこめがちであるが、それは避けるべきだとある精神科医が言った。専門家のエゴイズム、他の記事で述べた。
 金子みすゞは、 喜ぶ人たちの自己満足の影で苦しんでいるものの悲しみを見ていた人である。成功して満足する人、自分の職務をまっとうできて人生を楽しむ人がいる一方で、うつ病が治らない、虐待された人、暴力されて苦しむ人がいる。専門家のスキルから見捨てられている。満足する専門家も向かおうとしない。

 結局、マインドフルネスは哲学が基礎になる。西洋哲学か、東洋哲学か。西洋哲学は行動分析学がある。東洋 哲学でも、東南アジア系の仏教、大乗仏教、中国襌、日本の仏教哲学がある。西田哲学もある。 同じではない。初期仏教では不十分として大乗仏教が起った。仏教の哲学にも浅い深いもあり、具体的実践がないもの、あるもの、あっても難しすぎるもの、深い苦悩に達しないもの、さまざまである。時代によって、苦悩が変化した。 深いもの、一般人ができる具体的実践があるものでないと現代の「社会的マインドフルネス」とならないだろう。 具体的実践のない、思想だけ理論だけ言葉だけでは解決しない。その理論、その哲学思想で、現実社会(内部の満足でなく)のどのような問題の解決支援ができるかの「有用性」を忘れたら、専門家の理論発表での満足になり、一般人と無関係になる。理論の好きな専門家には見えずに知らないところで苦しみ「おとむらい」(金子みすゞ)になる人が救われない。人は自己中心の立場に立つもの、自分も自己中心の世界を作るもので、見えていないことが多いということを知っていなければならない。
★人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 20:07 | 人が怖い | この記事のURL