自己の根源 [2014年10月17日(Fri)]
自己の根源東洋哲学でいう最も奥の真の自己はさまざまな視点から説明される。 井筒俊彦は、「絶対無分節」というが、大乗仏教や哲学者は、別の視点から、次のようにも言われる。★時が消える、時が生まれる 時が消され、時 が生まれる、死の面であると共に、生の面 我々は過去から直線的な時間を生きているつもりであるが、実は、瞬間瞬間に時が消え、生まれる。瞬間に自己が消えている、すなわち、死んでいる(絶対無分節)。すぐに生が生まれる(分節)。 ★内的生命の流れ 心の本体、絶対に無なると共に絶対に 有なるもの 我々が生きているのは、言葉以前の世界であり、すべて分節前であり、絶対無である、それのみが実在である。自己の根底で自己もなく宇宙世界もない、そして宇宙、世界、すべてのものが自己の射影像として現れる。 ★ まどひなくさとりなく、諸佛 く衆生なく、生なく滅なし 迷惑せず、妄想 せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なき 我もなければ神もない、しかも絶対無なるが故に、山は是(これ)山、水は是水、有るものは 有るがままにある 絶対無を基礎にした社会的マインドフルネスも必要我々は、根底ではみな、苦悩、迷いのない世界に生きている。それを知らない。自分もなく、神もない。しかし、神のごときものをもっている。遠藤周作が「同伴者」というのもそれだろう。 西田幾多郎や他の哲学者、宗教学者によれば、すべての人がいつもその根底に絶対、仏とも神とも言われてきたものを持つという。大乗仏教がいっていたことは荒唐無稽なものではなくて、 西田幾多郎のように論理的に説明しなかっただけである。そのすべての人間の絶対平等性を基礎にしてそれぞれの個性が現れることを認める、絶対的すなわち同時に個性的なものが人格的自己である。それを了解できれば、悲しい生育環境により自己評価の低い苦悩を持つ人、人格を傷つけられたと苦悩する人、自分が死ぬという苦を持つ人の救いになるかもしれない。「しれない」というのは、まだ「当事者」ではないからだ。 このレベルの苦悩からも、うつ病、自殺が起きる。不幸な若者、事件被害者の苦、がん告知された人の苦によるうつ病、自殺。 苦悩は当事者でないとわからない。うつ病も治らないとつらいはず。医学界、心理学界が心理療法、精神療法を取りいれないから残念である。医師、心理士はその当事者ではないからだろう。そして当事者になった時には、もう行動できなくなり、うつ病が治らないというのはこういうことだったのかと苦悩の当事者になるだろう。他の病気は新しい治療法を開発してくれ、外国にある治療薬を保険の対象にしてくれと強い要望が出るが、うつ病は当事者にはその動きができない、悲惨な不思議な病気である。専門家からも見放されている。拾う専門家のない領域になっている。社会的復帰の難しい期間が長く、死亡率が高いのに。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3020 ★絶対無分節 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3137 ★道元、自己の根底は迷いなし、生死なし https://blog.canpan.info/jitou/archive/3029 ★すべての人が根底に絶対的に平等なるものを持つ |