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自分の底で起きていることを知らない [2014年10月16日(Thu)]

自分の底で起きていることを知らない

 マインドフルネス心理療法の実践をしてみると、今まで自分が知らなかった自分が見えてきます。 ところで、人格的自己のことは、もっと多くのひとが知らないことが起きているのです。自分を知らないのです。 哲学者、井筒俊彦の言うことをみます。
     「いわゆる東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である。表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々の事態を、深層の地平に置いて、その見地から眺めることのできる人。表層、深層の両領域にわた る彼の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現れている。」井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、p16
 金子みすゞも、人が見えないところを見る人でした。
     「深層意識と表層意識とを二つながら同時に機能させることによって、「存在」の無と有とをいわば二重写しに観ることのできる、こうした東洋的哲人のあり方・・」(p18)
 普通、人は表層の世界しか見えない。自分は見えない。自分と思う姿も対象的に観ている、本当の自分は見えていない。
     「表層意識の見る世界は、「存在」がいろいろな名によって、つまり言語的に、分節され、様々な事物がそれぞれ「本質」によって規定された存在者として生起してくる世界」(p17)
     「われわれの日常経験的世界には種々様々な事物があり、それらのものは一つ一つ名をもっている。きまった一つの名前をもつということは、きまった一つの「本質」をもつ――より正確にいえば、きまった一つの「本質」をもつかのように見える――という」ことにほかならない。」 (p21)
 ところが、これは、事物の真相ではない。苦楽、善悪、自分他者、自分と神仏、生死、無価値・価値の分節のない事実を与えられて生きているのに、あるがままの事実から原初的「本質」認知の過程が行われるが、そのような過程が自分の心の奥で起きているのを気づかない。
     「「天地の始」、一切の存在者がものとして現れてくる以前の「道」すなわち根源的「存在」には名前がない。それは言語以前であり、分節以前である。・・・ ところが、・・言語によって無分節の「存在」が分節されて、存在者の世界が分節されて、存在者の世界が経験的に成立する。言語以前から言語以後へ、「無名」から「有名」へ――「存在」の形而上的次元から形而下的次元へのこの転機点に「本質」が出現する。・・・
     われわれの日常的世界とは、この第一次的、原初的「本質」認知の過程をいわば省略して――あるいは、それに気付かずに――始めから既に出来上ったものとして見られた存在者の形成する意味分節的存在地平である。」(p13)
 私たちは、言葉でも本質でも規定されていない苦のない、善悪のない、生死、神仏、自他のない、自分の評価などない世界に生きているのだが、それを見落として直ちに言葉にしてしまい、言葉に分節したほうを実在だと思い込み、自分の真相を知らないで、苦悩したり他者を傷つけたりする。死後のことを気にする。東洋人は、この知られにくい自己の真相に気づいた哲人が多かったのである。自分は「無価値だ」ということはない、自分はだめだということはない。根源こそ真の事実であるのに、事実から離れたものをあげつらって、自分で苦悩し他者傷つける。

マインドフルネスの最奥は絶対無、絶対無分節

 うつ病、不安症、過食症、家族間の緊張、不和、さまざまな人間のいじめ対立、・・・、日本人の社会問題、世界中の紛争もみなこういう原事実を知らないことからこじらせている。真剣に哲学する西洋人も、東洋哲学の真相に気づきだしていた。V・E・フランクルもその一人であった。西谷啓治や井筒俊彦は他の西洋人の名もあげる。このマインドフルネスは西洋からの翻訳流入がすさまじいが、深いものは東洋にある。西洋も日本も、その深いものを発掘して一般の人に公開できればいいのだが。「専門家」には、唯一の実在、絶対無の根底によらず、自分の派の本質、言葉で構築したものを固持する傾向は根強く、絶対無分節の立場を尊重しようというのは、現状の分節構築されたものに満足する「専門家」でない、しばられていない人がすすめるのであろう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3029
★<目次>人格的自己の「マインドフルネス」へ
Posted by MF総研/大田 at 20:00 | 新しい心理療法 | この記事のURL