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すべての人の根底の絶対平等性 [2014年10月15日(Wed)]

すべての人の根底の絶対平等性

 すべての人の根底は、平等であり、これを基礎にした個性が人格的自己です。 ここに記事があります。  (この記事の範囲は宗教的次元の哲学者の説明になる。刊行した2冊の本のマインドフルネスは宗教レベルではない。言葉で理解し実践できる次元の範囲。根底の絶対無、仏性、宗教者の思想言葉をもちださないですむ範囲。宗教レベルになると、言葉ではつかむことができないもっとも深いもの、それはすべての人の根底だが対象的でないから見えない。)

 このことを哲学者がどのように説明しているかみましょう。 すべての人の根底を、絶対無(西田幾多郎)とも無「本質」、無分節(井筒俊彦)とも、無我、空、仏性(大乗仏教)ともいう。私は、∞で表記する。

 普通は、これが見えない。見えないがすべての人の根底のありさまである。鎌倉時代から修行されてきた襌は、これをつかむことであった。日本の芸術家が一見、ふつうの人にわかりにくい表現をしているものは、そこから現れたもの(〇/∞)を表現したもの。松尾芭蕉、宮沢賢治、金子みすゞ、東山魁夷、河井寛次郎、高山辰雄、高橋新吉、永田耕衣、・・・などに不可解な表現がみられる。道元、良寛、西田幾多郎の言葉も一見不可解な表現(〇/∞)がある。
 哲学者、井筒俊彦の説明を見る。
     「実際の修行道としての襌がいわゆる悟り、見性体験、を中心とすることは誰でも知っている。襌者の修行道程は、見性体験を頂点として左右にひろがる山の形に形象化されよう。この三角形の底辺は経験的世界、頂点に向かう一方の線はいわゆる向上道、頂点から経験的世界に向かう下降線はいわゆる向下道。」 (『意識と本質』井筒俊彦、岩波書店、p142)(山の形は下図の上半分=p144、下半分は大田が加えた)
 経験的世界は、さまざまなものを言葉にした(分節)世界。根底は、もっとも深層の自己で、言葉もない、さまざまなものに分かれていない、神仏、自分もない、善悪もない。
     「襌の実在体験の全過程を理論的に把捉し分析するために、修行上さきの未悟→悟→已悟という形で措定したものを、分節(T)→無分節→分節(U)という形に置き換えてみよう。
    三角形の頂点をなす無分節は、・・・意識・存在――意識と存在、ではない。 この境位では意識と存在とは完全に融消し合って、両者の区別はない――のゼロ・ポイント。 意識の面から見ても、存在の面から見ても、目に立つ塵一つない「廓然無聖」の境位である。」 (『意識と本質』p142-3)

     「あらゆる事物の無「本質」性、存在の絶対無分節、のこの深層的了解が成立した時、さきに掲げた「分節(T)→無分節→分節(U)」という三角形構造の頂点をなす無分節が深層意識的事態として現成する。それを襌は簡単に「無」という言葉で表現する。・・・・

     だが、この「無」は内に限りない創造的エネルギーを秘めた無であって、消極的な意味での無ではない。」p156
(続く)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3029
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Posted by MF総研/大田 at 19:24 | 新しい心理療法 | この記事のURL