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人格的自己のマインドフルネスが今こそ必要(2) [2014年10月13日(Mon)]

人格的自己のマインドフルネスが今こそ必要(2)

日本的なマインドフルネス心理療法の原典となる可能性を持つ『正法眼藏随聞記』

 西田幾多郎、西谷啓治、井筒俊彦、小坂国継、板橋勇仁などの哲学者、禅学の鈴木大拙、竹村牧男などの諸先生方が 認めるように、日本の深い実践哲学の源流は、道元禅師にあるといっています(もちろん、その前の大乗仏教、鎌倉以後の日本の多くの襌者、芸術家にも)。その著作の『正法眼藏』は、最も深い自己、絶対無 からみた自己や世界を書いているので大変難しく感じられます。あとで、少し見ていきます。

 しかし、道元禅師が、坐禅のあいまに、弟子に説法した内容を弟子懷奘(えじょう)禅師が筆録した『正法眼藏随聞記』は、現代のマインドフルネスの ように、その最奥の自己を探求する心得をやさしく説明したものが多いです。

 ひとつみてみましょう。

 「言ばよりさきに思ひ、行ひよりさきに思ひ、思ふたびごとにかならず善ならば言行すべきとなり。衲子 (のっす:僧のこと)もまた必ずしかあるべし。我が思ふことも言ふこともあしきことあるべき故に、まづ 仏道にかなふや否やとかへりみ、自他の為に益ありやいなやとよくよく思ひかへりみて後に、善な るべくんば行ひもし言ひもすべきなり。行者もしかくのごとく心を守らば、一期仏意に背かざるべし。 」(『正法眼藏随聞記』)

(意訳)
 人が話している時に、言葉を発したくなったり、何か行動したくなるものですが、 発言する前に、発言するのがいいかどうかよく考えなさい。行動したくなった時、そうするのがいい かよく考えなさい。 何か言いたくなった時、したくなった時、本当にそうするのが善なのかどうかよくよく考えなさい。自分で知らずに悪いことを言ったり、行動したりするものだ。だから、 仏道にかなうかどうかをかえりみて、自分のためにも相手や周囲の人のためにも利益になるかどうかよくよく考えてから、自他のために 善だというのならば、発言しなさい、行動しなさい。

 これをマインドフルネス心理療法での方法でいうと、次のようなことをさしています。
 常に自分の心を観察していなさい。他者と対話したり、多勢で講話を聴いているような時に、発言 したくなる、質問したくなる。その時は、欲求が起きたのである。その瞬間の欲求に気づき、すぐに 発言してしまうような衝動的反応を抑制しなさい。 自分で気づかないで悪いことを思い、行動をする(そういう悪=自他を傷つける欲求など=の思考、発言、行動の原因の位置にある心理を本音という)ものであるから、よくよくその瞬間の本音を観察しなさい。 その発言をすることが、本当に自分のためにも、 周囲のためにもいいことなのかどうかその瞬間、よくよく考えて、やはり自分、他者のためにもいいこ と(傷つけない)だというのであれば、発言しなさい。
 行動も同様である。何か行動したくなった時、本当にそれが、価値実現という視点から、自分にも他人にもいいこと(傷つけな い)ならば、行動しなさい。つまり、自分の衝動的欲求をすぐに言動に移さず、その瞬間の衝動的 欲求に気づき、その瞬間の本音(エゴイズム、自己中心の心理)にも気づき、衝動的(自他を傷つける)行動を抑制して、価値実現に照らして、だまっているか、意志的言い方、意志的行動をしなさい。 こういうことに該当するでしょう。

言うのはやさしいがするのは難しい

 このような実践モデル、理想形は、書いたり言うのは簡単ですが、実際にできるようになるには、相当難しく、一定期間の訓練が必要です。自分や他者を傷つける怒り、批判や差別の言葉、他者を支配抑圧する言動、過食、リストカット、暴力、虐待、回避、逃避などの行動は容易に変えることができません。さまざまなところで、セクハラ、パワハラ、人権侵害、組織内における権力闘争、組織間の対立抗争、集団内における思想、地位による主張・学問の自由抑圧、思想による殺人戦争などの言葉や行動があります。自他ともに傷つけない言動を続けることはとても難しいことです。だから、一生実践し続けるべきものです。

実現価値は共通の「仏道」ではなく個人の個性的価値

 「価値実現」と書きましたが、道元禅師の場合には、仏道の実現になっています。道元禅師は弟子たちに「実現価値」としては、僧侶の集団として、仏道の完成という<集団共通の>価値を置いたのです。 しかし、生きていく専門分野が仏教の実現でない 現代の私たちは、「仏道のために」ではなくて、自分の、そして、そこで生きる場所(家庭、勤務先、近隣、社会)とそこに生きる他者(家族、同僚、クライエント)を傷つけないようなものでありながら、自分で選択した個性的な人生価値が「実現すべき価値」となります。4つの価値、7つの領域で確認することを提案しました。

  『正法眼藏随聞記』には、現代のマインドフルネス心理療法の手法にあたるものがたくさんあり ます。自他を傷つけず、深い自己を探求していく方法を説明しているので、やさしいのです。しかし 、 『正法眼藏』は、最奥の絶対無(身心脱落という)を基礎にした自己、世界のありようをぶつけているので大変難しい です。絶対に対象にならない(だから本当は言葉にならない)、言葉以前の自己根源(自己もない 、言葉で分けていない)とその顕現としての言葉をなげだしている(論理的にはいっていない)ので 、わかりにくいです。しかし、上記のような哲学者の哲学的な解釈に導かれると、理解できます。 それでも、理解できても、やはりその理解が言葉による思考によるものであるので、 実際を体得できていないのです。それでも、その究極と、そこへの到達方法がわかります。

 だから、『正法眼藏随聞記』をもとにしたマインドフルネス心理療法を開発することも可能でしょう。仏道絶対主義、仏道原理主義的にならないように組み立てられれば、ほぼ、自己洞察瞑想療法(SIMT)に似たものになるはずです。道元禅師の哲学も、西田哲学も日本の哲学だからです。ただし、『正法眼藏随聞記』には、 意志的自己のSIMTから、人格的自己のSIMTまでをカバーする教えを含んでいるようです。時々、難しい部分、絶対無に該当すること、も含んでいます。経典、語録など書物を読むだけでは絶対に、自己を究めることはできないと繰り返し注意しています。エゴイズムの心理(我見我執といっています)に気づき、発言行動の抑制の実践をしなければならないと注意しています。聡明な人が哲学・論理を理解して自己を究めるのではなくて、我見我執を捨てる実践するものが仏道を究める というのです。実践しないと仏道を究めることはできないというのです。 マインドフルネス心理療法でも、実践しないひとは、よきマインドフルネス者にはなれないというのは、こういうところから言われているのと似ています。マインドフルネスは、さまざまな問題を解決援助するものですから、形式的に呼吸法、各種の瞑想をするだけのものではないようです。さまざまな領域の人たちが苦しんでいる問題を解決の援助ができる実践でないと、大切な命をそこないます。

 マインドフルネス心理療法は、特定の宗教に偏ったものになりますと「マインドフルネス心理療法」ではなくて、「宗教」になってしまいます。宗教が要請する実践の中から、現代人に共通の実践を選択抽出しなければなりません。さもないと、苦痛ある人、忙しい人に無理、無駄な実践をさせてしまいます。浅い宗教的自己観にとどめてしまいます。 形式にとらわれずに、背景の哲学、理論、科学的な説明やエビデンスを了解することが大切になると思います。

 「宗教」は警戒されるものではないと思います。ただし、宗教が浅い自己観に とどめてしまったり、支援者に依存させると弊害もおこりそうです。「人間はこのようなものだ」という浅い自己観を教示されれば、そのようになるでしょう。自分の思想に依存させるように教示すれば、依存するようになるでしょう。「みなさんはだめだ(私だけが偉い)」といい続ければ、そういう抑圧された人が多くなるでしょう。

 マインドフルネス心理療法は、1,2年の支援で自立できる心にするのが目標であると思います。支援者が依存されることを生きがいにする心もまた捨てるべき支援者の本音ですので、支援者側も頼られるよろこびは捨てねばなりません。医師が治せる病気は治して治療を終結するのと似ています。さびしいことですが、マインドフルネス者も、1,2年の支援関係を修了していくものでしょう。マインドフルネスは心の観察ですから、心の自立が目標になるでしょう。
 宗教ということの定義を理解しておいて、宗教レベル以前の心得を応用するか、宗教レベルの苦痛を持つ人には、そのレベルの実践で支援する(その場合にも方法を伝達して自立心をめざす)か、そこにも、マインドフルネス者と支援を受ける人の選択の自由があると思います。他者の人生をそっくり引き受けることはできません。他者を依存させる心にしない、むしろ自立していただく、「よくととのえた自己を燈とする」ということは原則だと思います。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3029
★<目次>人格的自己の「マインドフルネス」へ
Posted by MF総研/大田 at 21:28 | 新しい心理療法 | この記事のURL