ジャーナリズムによる専門家のエゴイズム批判 [2014年09月12日(Fri)]
ジャーナリズムによる専門家のエゴイズム批判=ジャーナリズムの権力(政治、学問、専門家)批判、自己批判に学ぶ=仏教、禅、マインドフルネスにおける自己批判は ジャーナリストは、権力によるエゴイズムによって苦しめられる人、組織のエゴイズムにしいたげられた人を批判し真実を報道したり、少数の批判者の声をも ひろってくれるはずです。しかし、自分に批判的な声を封じるのは、ジャーナリストとしての専門家のエゴイズムの一つの形なのでしょう。それは、国民の知る権利を侵害するからでしょう。社会を害するという不安から国民は嫌でしょうから、批判されます。 しかし、気づかれにくいことが、学問の世界でも起きていると思います。自分のやっている学問研究に批判的な声を無視、排斥しようというエゴイズムが働くでしょう。学問は仮説に基づくので、どの仮説を好きになるか個人によって違うので、やむをえないことですが、その執着によるエゴイズムが起こります。学問には、国民の知る権利を守ろうという自発的な倫理はないようです。 しかし、それに気づいて、エゴイズムをやめようというのもマインドフルネスなのです。マインドフルネスは、なるべく、無評価の立場から見ようというのですから。 仏教、襌では、「我執を捨てよ」という実践的要請でした。自己洞察瞑想療法(SIMT)では「本音」と呼ぶことにしました。自分のエゴイズムをよく観察して気づいて、社会の発展を妨害しないようにしようという実践です。なかなか、難しい実践です。医療領域で、これがあると、患者を苦しめることが起こります。治ることを遅らせます。死に至るかもしれません。 うつ病が改善しないところ、自殺が起きるところ、薬(うつ病ではなく)の開発にも、専門家のエゴイズムが働くでしょう。 現代のマインドフルネスでも、エゴイズムの観察、気づきが軽視されているかもしれません。人間は、自分の価値に執着して、自分の利益、プライドなどから、良きものを否定、無視するエゴイズムを起します。仏教、襌、西田哲学が教えてきました。道元禅師は繰り返し我見我執を批判しています。西田哲学は、全く自我のない立場からということを何度も強調しています。 金子みすゞもずいぶん深い立場から見る人でした。 (続く) 【目次】ジャーナリズムの権力(政治、学問、専門家)批判、自己批判 (8)良心を目覚めさせる、特に科学者の ジャーナリズムは、読者の知性と良心を目覚めさせることができる。アカデミックも読者である。良心を目覚めさせるのは渦中にある自身では難しく、離れて眺めることができるジャーナリストである。 (7)良心を目覚めさせる、特に科学者の 人文知、ジャーナリズムやメディア、権力のエゴイズム批判 (6)自由にモノ言える社会とは 〜 学問・宗教・言論・思想の自由がない日本 (5)何かおかしいぞと感じたら思考停止に陥らずに声をあげよう=市民もメディアも (4)ジャーナリズムのあるべき姿は 「メディアの真の責任とは、政府が知らせたくないニュースを人々に知らせることだ。」 では、仏教、禅、マインドフルネスの学問の真の責任とは? (3)ジャーナリズム 「気に入らない意見や、不都合な批判を排した新聞は、もう新聞ではない。 「あなたの意見には賛成しないが、あなたがそれを言う権利は命をかけて守る」。」 =それが、仏教、禅、マインドフルネスでは (2)ジャーナリズム「自分たちの主張に都合の良いように事実を集めたのではないのか」 では、宗教や学問にはそれがないのか (1)ジャーナリズムによる権力批判、学問によるエゴイズム https://blog.canpan.info/jitou/archive/4634 メディアも支配的な意見を拡声するのみ =少数意見をとりあげないメディア <別の連続記事>専門家のエゴイズム 専門家のエゴイズム さまざまな立場からの思惑 哲学が違う |