意志的自己であるためにあやうい [2014年09月07日(Sun)]
意志的自己であるためにあやういさまざまなつらい出来事でうつ病なったり、家族同志で反目したり、同僚仲間をいじめたり、仕事で失敗したり、人生には苦悩が多い。たいてい の人が「意志的自己」として生きている。意志的自己は愛と憎しみの人生を送る。 西田幾多郎はこういう。
「我々の社会的生活といふのは、かかる意志的自己の自己限定に基いて建てられるのである。」 (旧全集5巻314頁) 叡智的自己に深まる意志的自己は浅い自己であるので、順調な時は愛、喜こびがあっていいが、いつも、憎しみや悲しみの淵の傍らにいる。不満、反目、憎しみ、嫉妬、やっかみ、差別、セクハラ、パワハラ、 暴言、暴力で苦しめられる。自己を探求して心の成長をとげて叡智的自己に到れば、いつも喜こびとなるという。
「叡智的自己その者に於ては、それが脱体的なると共に悲というものはない、すべてが喜である 。」(旧全集5巻292頁) もっと深いマインドフルネスが叡智的自己のマインドフルネスである。 この段階は、相対的一元観であり、欧米のマインドフルネスでも仏教でも言わない。西田哲学の独特の洞察である。仏教は究極をいい、途中段階を言わないからである。欧米は二元観である。マインドフルネスであっても二元観である。だから、ジョン・カバット・ジン氏は、MBSRは一生探求すべき入門であるという。 叡智的自己は、その意図で哲学を帯びて(そういうのを大乗仏教は智慧、般若といった)深く見ていくマインドフルネスのトレーニングをしないと深まらない。西田哲学によれば、判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己と段階がある。叡智的自己、人格的自己は西洋の二元観ではない。 感覚や身体の運きの観察という 浅いマインドフルネスは、意志的自己よりも浅い「知的自己」である。人生は、受動局面の観察、無 評価にとどまってはいられない。受動的なものが不快であろうとも、価値、目的に向かって、行動しなければならない。行動局面は無 評価ではない。価値評価をして行動しなければならない。価値のないことにかかわっていられない。うつ病や不安症/不安障害などを改善したり、予防するためには、この ように深い意志的自己のマインドフルネスが最低限必要である。 それを克服した時には、浅いマインドフルネスはしなくなるだろう。健康な人で、毎日ボディスキャ ン、ヨーガ瞑想をする人はいないだろう。 その問題を克服したら、さらに深いマインドフルネス手法の実践に入る。ジョン・カバット・ジン氏も言っている。MBSRは一生かけて取り組むべきことの「入門」であると。 マインドフルネスの手法は、問題に応じた手法が選択されないと、クライエントに無駄な課題となる。放棄される。問題に応じてマインドフルネスの手法が選択される。だから、MBCTは、再発予防法といわれる。重症患者の治療法ではない。 うつ病が治ったから、うつ病ではないから、マインドフルネスが無用というわけではない。 うつ病でなくても、マインドフルネスをすべきだったのである。 うつ病になった人はまさか自分がそうなるとは思っていなかったのである。私もそうだった。 マインドフルネスをやっていなかったから、うつ病になったのである。 だから、一応、心が健康である「意志的自己」ではあやういのである。このことが多くのひとが理解さ れていない。だから、うつ病になる人が多い。西田哲学が教えているが難しく感じられる。襌も教えてきたというが、禅僧 によって解釈がま ちまちであり、言葉での導きもなく真意がつかみにくい。 だから、仏教や襌の中にありながら埋もれていたマインドフルネスということが脚光をあびている 今こそ、叡智的自己、人格的自己まで探求するいい機会なのである。うつ病の回復、自殺の減少には、意志的 自己のマインドフルネスで充分である。価値実現の人生のためには、叡智的自己になりたいものである。 自己の死、自己の無価値の苦には、もっと深い人格的自 己のマインドフルネスが必要であるが関心を持つ人(=このことに意味を見出して、それを人生の 実現価値として現実に行動する)は少なく、理解されてくるのは、マインドフルネスがもっと盛んになる何十年も先の ことかもしれないとも思う。このことが軽視、無視、傍観されているから。 (⇒叡智的自己は無限の喜び) ★マインドフルネス心理療法と西田哲学 |