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叡智的自己は無限の喜こび [2014年09月02日(Tue)]

叡智的自己は無限の喜こび

 叡智的自己は、見られた(ノエマ)身体的な不快を問題にせず、価値実現のために行為していく(ノエシス)ので、「無限の喜こび」です。西田幾多郎はこういいます。
     「叡智的自己その者に於ては、それが脱体的なると共に悲というものはない、すべてが喜である 。」(旧全集5巻292頁)
 叡智的自己は、実現価値をもって生活します。内から要求した内容を、客観世界に作るように行為しその結果が実現したものが見られる(ノエマ=対象的に見られて=となって)ので、価値実現のよろこびを得ます。もちろん、要求は自分に実現できる内容です。時々刻々と、行為し見つつ、行為します。「喜びということは、自己が自己自身の発展を見ること」といいます。 自分が社会に貢献していく願いが実現しゆくことが喜こびです。
     「我々の自己は自己自身の底に即ちそのノエシス的方向に自己自身を見ていく。かく自己の中に 自己を見て行くことが、自愛であり、而して自己自身を見得るか ぎり、そこに喜びがある。アウグスチヌスが我々は知らないものを愛することはできぬ、愛 するという時、すでに愛するものを知っているのであるといった。 かかる意味において知るというのは、いわゆる知識的に知るということではなく、叡智的に知るとい うことでなければならぬ。喜びということは、自己が自己自身の発展を見ることである、ゆ えに記憶なくして喜びというものはない。喜ぶというには、まづ自己を内から動かす要求が なければならない、しかしてかかる要求は外より来るものでなく、自己自身の中から起るものでなけ ればならない、それは見られた自己でなければならない。自己自身の内というのは叡智的自 己の射影面を意味するのであり、見られた自己というのは叡智的自己の映像である 、衝動的要求というのは自己自身を見ようとする努力である、主客合一の直観に到ろうと する過程である。直観そのものに至れば、そこに無限の喜びがあるであろう、それが真の 幸福というものである。それに至る一歩一歩が自己自身の実現として満足であり、喜びである。 ・・・・」
 叡智的自己は、知的対象的、二元観でみるのではなく、 叡智的に見ます。対象界にあるものを自分だけの個性的な価値となるべきもの=意味と見て、実際に行動して客観界に実現していきます。希望したものが実現するのですから、喜びです。 自己の要求と行為によって実現した客観が一致する直観そのものに至れば、無限の喜びがあるであろうと、西田はいいいます。
 ところが、見られたもの(ノエマ)から、圧迫されたように意識される時に、悲、苦痛となります。 これは叡智的自己ではなく、意識的自己です。意志的自己もこれにおちいりやすい。客観と自己が別々で、客観が自己に不満です、苦痛です。
     「自己が叡智的なノエマの方から限定せられる時、それがである。我々の意識的自己と いうのは叡智的ノエシスの抽象的限定なるがゆえに、叡智的ノエマの方から否定せられ、身体的 に破壊せられた時、それが苦痛であり、悲である、その極、意識的自己は自己自身を失う て死に至るのである。感覚的快不快というのも、我々の自己からそのノエシス的内容を極 小にすることによって、自然と接触したいわゆる肉体的自己の苦楽に過ぎない。」(巻5-290から 291)

 私たちは、うつ病になったり、苦痛を感じる場合、衝動的自己であり、意志的自己の生活もできなくなっているのです。 まず、意志的自己になることが大切です。西田幾多郎によれば、多くの人が、叡智的自己ではなく、意志的自己です。意志的自己と意志的自己のまじわりです。そして、意志的自己はいつかストレスや大きな出来事があったとき、あるいは失うことの多い高齢になった時に、 衝動的自己になるおそれがあります。だから、深いマインドフルネスの実践が必要な理由があります。

 順調であった人がうつ病になることがあります。ものごとを自分と対立し圧迫すると対象的にみる二元観であるためです。世界を自分の価値実現の世界とみる叡智的自己の哲学を知り、それに向かってのマインドフルネスの実践をおすすめしたいのです。特に、高齢になれば、みな、 失うものが多いので、危機的です。 すべての人が叡智的自己になるのがいいのです。マインドフルネスは、かなり深いものまであります。感覚レベルから思考レベル、意志的レベル、さらに叡智的自己、人格的自己レベルまであります。 まず、意志的自己レベルのマインドフルネスで、意志作用ということを行動的に体得します。 そして、対象的な自我を捨てて、世界を自己の中に見るという一元観の「直観」で生活していく、奥底に自己があるので対象的な自己はみないという叡智的自己の実践をするのです。

 さて、叡智的自己は、喜こびの自己ですが、独断的です。自分の領域の外の苦悩が見えません。世界の立場に立てないのです。もっと深いのが人格的自己です。

【参考記事】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3350
★各人が各人の世界に住む(叡智的世界)


https://blog.canpan.info/jitou/archive/2768
★叡智的自己

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2787
★専門家はエゴイズムになりやすい

Posted by MF総研/大田 at 12:13 | 深いマインドフルネス | この記事のURL