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日本マインドフルライフ協会の拡大定例(6) [2014年01月20日(Mon)]

日本マインドフルライフ協会の拡大定例(6)

 私の発表は、「うつ病・不安障害を治すマインドフルネ ス 」という題でした。 内容は、3つの部分からなります。
    1)うつ病・不安障害を治すマインドフルネス 
    2)マインドフルネスとは
    3)私のマインドフルライフとは

3)私のマインドフルライフとは(3)

 発表できませんでしたが、私にとってマインドフルネスとは、今も実践しているものです。 毎朝、毎晩、静かに行い、行動中も自己洞察しています。だから、 セラピー(医療、心理療法)とか何かの問題に適用するとかいうだけではなくて、 手法だけではなくて、生活全体にしみとおっています。 おそらく、ジョン・カバト・ツィンが いった「全体性」、V・E・フランクルが言った「一人類教」の探求と同じであろうと思います。 すべての人に生まれた時から根底にあって、生涯探求していくもの、一生の仕事なのですから。 鈴木大拙の日本的霊性、西田幾多郎の絶対無の場所でしょう。大乗仏教が強調したように、自己満足のマインドフルネスでなく、他者の援助のマインドフルネスは無限に続くはずです。
 以下は、発表する時間がありませんでした。

ジョン・カバト・ツィンの東洋哲学

 ジョン・カバト・ツィンの「全体性」は次のようなものです。 この全体性の根本実在から、MBSRのマインドフルネスの働きが出てくるのでしょう。 「瞑想と”全体性”の認識との関係」といっています。瞑想とはマインドフルネス実践ですね。 すべての人の根源の全体性から、マインドフルネス瞑想が出てくる。単なる 手法ではないわけです。背景に東洋哲学があります。
     「”全体性”は、生まれたときからもっていたものです。つまり、 ”全体性”という視野をもつ ことで、今までとは違ったとらえ方がで きるようになり、分裂した思考も、恐怖、弱さ、不安な ども乗り越え ることができるということです。絶望さえも乗り越えることができる のです。  しかし、”全体性”や”内的な結びつき”を理解するのは、一生の 仕事です。瞑想トレー ニングは、それらを理解するために意識的にふ みだした最初のステップにすぎないので す。」(「生命力がよみがえる瞑想健康法 」p285)

     「「マインドフルネス瞑想法」のトレーニングは、一般的に行われ ているリラクセーション・ テクニックやストレス対処テクニックとは 明らかに異なっています。最も大きな違いは、この プログラムが、 ”全体性”を直に体験するための扉を提供しているという点です。」 (p289)

     「これまで、多くの偉大な思想家たちが、”全体性”という概念や 、自分の人生の中で” 全体性”をどのように認識していくか、という ことを追及してきました。スイスの偉大な心理学 者ユングは、東洋の 瞑想の伝統を高く評価していました。彼は、「東洋の冒険的な思想家 たちは、この問題(”全体性”への到達)を二千年以上も追求してき た。この点、西洋の方 法論や哲学理論などの業績は、東洋の業績を前 にすると色あせたものになってしまう」と 書いています。ユングは明 らかに、瞑想と”全体性”の認識との関係を理解していたといえ ます 。」(p290)

フランクルの哲学

 フランクルの 「一人類教」は次のものです。もっとも深い一人類教の場所的存在は各宗教の絶対者をもすべて包むもので東西の宗教哲学を綜合した共通のものです。西田哲学の絶対無の場所(真の自己)と同じような位置づけです。西田幾多郎も同じことをいうからです。
     「もし価値が見出されるべきであり、万人に妥当するような一つの意味が見出される べき であるとすれば、幾千年も前に一神教を生み出した人類は、この一なる神への信仰 になら って、今やさらなる一歩を踏み出さなければなりません。すなわち、それは一な る人類に ついての知であります。今日では以前よりもいっそう一人類教が我々に必要な のでありま す。」(『意味への意志』春秋社,p36)

     「一神教の諸宗派は、相互理解と寛容をもって、共通の究極者の究極的な共通性を自 覚することによって互いに結びつきうるのだ、と。諸宗派は、その際、他の諸宗派との 共同 性を自覚し、《一神教の一元論》を自覚するようになるのです。しかし、その場合 には、ユ ダヤ教の最高の祈り《イスラエルの民よ、聞きなさい。われら(各人)の(人 格的なる)神は ただ一人である!》は、自らを開いて、次のような祈りにならなければ なりません。−−− 汝らすべての民族よ、聞きなさい(すべての一神教の宗派よ、聞き なさい)。われら(各人) (各宗派)の神はただ一人であり、唯一にして同じ方である 、と。」(p103)

さまざまなマインドフルネスにそれぞれの哲学が

 マインドフルネスは、みなそれぞれの「自己存在」の哲学をもっているようです。 アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)は、「文脈としての自己」を言いますが、行動分析学という哲学だといいます。西洋哲学で、宗教以前のところで、とても広く適用しようとしているようです。得意領域がありそうです。
 ジョン・カバト・ツィンのMBSRとセーガルらのマインドフルネス認知療法は、東洋哲学、おそらく、襌の哲学(道元か)のようです。それは、西田幾多郎によれば、東西の宗教の根底にある共通のもののようです。
 マインドフルネスには、宗教レベルと宗教以前のものがありそうです。 自己洞察瞑想療法(SIMT)は、西田哲学を基礎にして、宗教以前のマインドフルネスです。これから、 さらに深い叡智的マインドフルネス(まだ宗教以前=フランクルのロゴセラピーと同じレベル)があり、さらに人格的マインドフルネスがありそうです。 日本的マインドフルネスは、発展段階にあり、これからなすべきことが無限にあります。

叡智的自己のマインドフルネス

 叡智的自己のマインドフルネスは、フランクルのロゴセラピーに、マインドフルネスを加算したものになるような気がします。職業領域で成功していた人が、何かの出来事でうつ病になり、自殺することがあります。高齢者にはとても多いです。人生の価値の確認、選択、移動をうまくできないとそういうことが起きるのだと思います。ロゴセラピーとマインドフルネスの合体が、大切な一つか複数の価値を崩壊してしまった人に再起してもらうための援助法になるような気がします。瞑想をしながら失われた価値による苦悩を観察し受容しつつ、瞑想の中で別の生きる価値の探索をするのでしょう。
 もちろん、これは、人生価値を失った人の「治療法」だけものではありません。上にいったように 成功しつつある人に、突然おそいかかる価値崩壊的出来事があります。魂の備えがないと、あっといいうまに、飲み込まれてしまいます。「予防」が大切なのです。叡智的自己のマインドフルネスは、人生の価値を失うような魂の病の「予防」法みたいなものかもしれません。

医師による魂への配慮

 フランクルは、医師が宗教的な問題に直面する患者とあうことが多いといいます。 生涯、負っていかねばならない身体障害、たとえば外科医は足の切断、眼科医は失明、内科医は、脳梗塞による半身不随などを持つことになる患者さんにあいます。がんであると告知して、暗黙に死の準備をすべきと宣言をする医師もいます。深刻な苦悩を持つ患者さんにあいます。医師ほど、宗教への扉の前に立つ人々にあう職業はないでしょう。さまざまな病苦によって苦痛に満ちた人生を宗教によって癒され、闘病する精神を持つことができる人もいるのです。
 医師は、精神療法、哲学的宗教的な勉強を深くせずして、精神療法、宗教への扉を塞ぐことをしてはならないのです。 フランクルがそう言っていると思います。
 宗教の力のすばらしさを認めるからといっても、フランクルも私も、宗教者ではありません。そういう魂の癒しの援助ができるのは宗教者だとフランクルが言っています。医師や心理士は宗教への扉の前に立ち、迷っている人によくあうのです。
(続く) 
  • (1)=写真
  • (2)=うつ病・不安障害を治すマインドフルネス
  • (3)=マインドフルネスとは
  • (4)=私のマインドフルライフとは(1)
  • (5)=私のマインドフルライフとは(2)
  • (6)=私のマインドフルライフとは(3)
  • (7)=私のマインドフルライフとは(4)
  • (8)=私のマインドフルライフとは(5)
  • (9)=私のマインドフルライフとは(6)
  • (10)=私のマインドフルライフとは(7)
  • Posted by MF総研/大田 at 22:08 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL