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叡智的自己は対象を愛することによって自己自身を愛する [2013年11月13日(Wed)]

価値実現に生きる叡智的自己(10)

 =衝動的自己、意志的自己から叡智的自己へ
 =叡智的自己は価値実現が習慣化している
 =叡智的自己は対象を愛することによって自己自身を愛する

叡智的自己は対象を愛することによって自己自身を愛する

 叡智的自己(知的直観の一般者)は客観・対象を価値実現の世界とする。叡智的自己は、自分の生きる世界を 自分で構成するのである。自己自身が世界である。だから、世界、対象を愛することが自己自身を 愛することである。
     「自愛というものが意識的に自己の存在を限定するものである。 ノエシスの方向に超越するという こと、すなわち深く自己自身の奥底に至ることによって考えられる知的直観の一般者に於いてあるも のにおいても、真に有るものはいわゆる意識一般というごときものではなく、行為的自己の自覚でな ければならない。行為的自己とは客観界を自己実現の手段となすもの、否、その表現となすもので ある(対象そのものを愛することによって自己自身を愛するものである。)。」(『叡智的世界』西田幾多 郎旧全集、岩波 書店、巻5,157頁)
 ヴィクトール・フランクルが、外の世界に、生きる意味を発見するようにいうのと通じる。 外的客観、外的世界(実は自己自身においてある)を愛することが自分を愛することである。だから、 家族を愛することが自愛であり、仕事を愛することが自愛である。
     「我々の自己は自己自身の底に即ちそのノエシス的方向に自己自身を見ていく。かく自己の中に 自己を見て行くことが、自愛であり、而して自己自身を見得るかぎり、そこに喜びがある。アウグスチ ヌスが我々は知らないものを愛することはできぬ、愛するという時、すでに愛するものを知っているの であるといった。 かかる意味において知るというのは、いわゆる知識的に知るということではなく、叡 智的に知るということでなければならぬ。」
      「喜びということは、自己が自己自身の発展を見ることである、ゆえに記憶なくして喜びというもの はない。喜ぶというには、まづ自己を内から動かす要求がなければならない、しかしてかかる要求は 外より来るものでなく、自己自身の中から起るものでなければならない、それは見られた自己でなけ ればならない。」(巻5,290頁)
 「愛するという時、すでに愛するものを知っているのである」 という。自分の実現したいことをあらかじめ知って、それに向かって行動して実現するのである。 「予期不安」というものがあるが、それは、不安なる未来を見て回避して価値が実現しない。しかし 叡智的自己は、自分の願いを描いてそれが行為によって実現する。 知識的に知るのではなく、行為的に知る、叡智的に知るのである。
 これから考えれば、社会のために生きる価値を知って、客観を自己自身とみることができるように自 己洞察の実践をすることになる。意志的自己を越えた叡智的自己のマインドフルネスは、客観を自己自身と見る訓 練になる。行為的直観である。自己に於いて世界がある。自己と世界が一つである。ただし、まだ、絶対無の自覚はない前段階である。

自愛のかたわらで他害にならないように

 叡智的自己は、世界を自己自身とみて世界を愛する行為をしていくが、他者を害し易い。だから、世界の立場を忘れずに行為するというマインドフルネスの実践でなければならない。他者を害しようとする煩悩(本音)を自己洞察しなければならないだろう。
叡智的自己
 職業、家事、育児も専門家であり叡智的自己だが自覚がない
 
  • (参考)専門家のエゴイズム
  • ヴィクトール・フランクル=さまざまなレベルの自己
  • Posted by MF総研/大田 at 21:48 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL