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人は自分の利益を優先ささせる傾向がある [2013年11月12日(Tue)]

価値実現に生きる叡智的自己(9)

 =衝動的自己、意志的自己から叡智的自己へ
 =叡智的自己は価値実現が習慣化している
 =それだけ、自分の利益を優先ささせる傾向がある

叡智的自己はエゴイズムにおちいりやすい

 人は価値実現のために生きる。意志的自己は、価値実現の行動ができなくなった場合には、苦痛が起きるので解決のために、 価値実現の意志作用のエクササイズをする。また、ほぼすべての人が、 習慣化していない価値領域の行動をする時に、意志的自己の反応を努力する。
 叡智的自己は、自分の専門価値領域で、自分の価値をしっかりもっていて、その価値実現への反応が習慣化された自己である。 自分の仕事、趣味などに生きがいを持ち、一々努力しなくてもスムーズに行動できていて、喜こびを感じている。しかし、周囲の人は満足していないかもしれない、苦しめているかもしれない。 人はみな、自分の喜び、自分の利益、自分の名誉を優先する我利、自己中心の思考、態度、行動をする傾向をもっている。エゴイズムであるが、仏教や西田哲学が教えている。 西田哲学が専門家、科学者にも、自分に執着して、世界の立場に立たないことが多いことを指摘している。叡智的自己は、自分の領域だけを重視するし、自分の領域でも、社会の発展にさからう自由、周囲を苦しめる自由を持っている、
  • (3)専門家、科学、学問にもエゴイズムが起る
     ☆「否定すべきは、我々の自己の独断と我執」「世界は夢と偏見とに充満」学問・科学にも「各人の 独断、各人 の我執というものが本質的」。
  • (4)技術、科学、学問にも人のエゴイズムが働く
     =悪意があるわけではなく、その意識もなく
     =だからこそ、科学、学問をする者は我執に気づくべき
     ☆「科学も我々の個物的自己がどこまでも物となって考え物とな って行ふ立場でなければならな い」(=法執我執を去った、世界の立場)
 つまり、さまざまな領域で、患者の立場を考えない、市民の立場、顧客の立場を考えない、など自己中心の行為をするということである。専門家でも、専門家こそというべきか、自分のいきがい、自分の利益を優先させて、他者の迷惑、他者の苦悩を考慮し ないことである。学問の研究者、科学的研究者も、自分で立てた仮説が全く自分の恣意的なものがない世界の立場ではない仮説でありながら執着して行動して、市民や組織に迷惑をかけたり、 苦しめ ることも起きるということである。学問、科学の名において表明し行動するから、市民はくらまされやすい。歴史上、そして、現在もさまざまな科学、学問領域で起きているのであるというのである。 自己洞察がないと、組織やグループ、その社会で権力、名声を持つ者が特にそうするおそれがある。 心の病気でない一般の人間、専門家でさえもがこうなのである。 他者を傷つけることをする自分の中にある悪質な心(隠したい醜い心、自己洞察瞑想療法では本音と名づけた)も、自分で観察して気づき、抑制するのも、マインドフルネスに要求されるのである。独断的な評価をしない、あるがままが、マインドフルネスなのであるから。
 仏教の学問においても、大乗仏教にあった重要な部分が失われたと指摘する研究者もいる。鈴木大拙、西田幾多郎もそう指摘して久しい。つまり、多くの研究者が自分の好きな選択眼で経典や論書のテキストを読んで、自分に都合のよいテキストを採り、都合のよい解釈をする学問が起きる可能性があるということである。 重要な部分が失われているということは、深い真相を究明しなということ(法執)が起り、ある仮説(これこそ真理だという)に基づくから本人は自己満足であるが、人々の葛藤、苦しみが解決されない(我執)とか、他者救済(慈悲)の実践がされなくなる。深い自己の真相を強調するテキストが捨てられ、実践の伴わない思想を中心とした解釈がされて、現実の生活、社会の現場で、深い自己洞察実践、他者救済実践がされなくなった。だから、マインドフルネスが起ったといえる。
 宗教ではなく、科学的であることをようやく認知され始めた「マインドフルネス」にも、ある仮説を絶対として執着すれば、エゴイズムの心理探求や他者への直接対面の臨床(これがないと現実社会に有用ではない)を実践されない文献だけの研究(=援助者、カウンセラーによる現場の臨床がないと社会の現実に有用性がない)になるおそれがある。援助者、教師、医師、カウンセラーなどによるクライエントへの現場の臨床が最も大切である。どの領域でもそうなのである。人 間の本質が、自分の好きな範囲でする存在、エゴイズム、悪を犯す自由を持つ存在であると、西田が指摘しているが、実は大乗仏教、特に唯識が精緻に人間の執着、エゴイ ズムを分析していて、思想、文献研究だけに留まらずに、自分でエゴイズムに気づき、どこまでも真理探求の実践を続け(法執我執を捨てる)、自分と他者を傷つける心(煩悩)を抑制すべきであると教えている。東洋的、日本的マインドフルネスは、唯識の教える法執我執、煩悩など の教えを参照しなければならないだろう。なぜなら、こうした心作用が事実をあるがままを見ること(マインドフルネス)を妨げ、浅い真理仮説に基づく行動をすることになると、社会の発展を妨げることになり、クライエントの成長、クライエントの苦の救済を妨げてしまうからである。善意であって、悪げがなくもそれが起きる。自分の習慣化された好きな価値基準の色眼鏡で見るから気づかないでし てしまうことがあるから、マインドフルネスでなくなるのである。人は、自分の心をよく知らないのである。
 (「煩悩」を捨てる実践を専門家がいわなくなった。仏教書で説明はしているが、現実の実践を具体的に言わない。新興宗教と言われる組織ではむしろ実践されているようである。だから、救済が起り、強い信者を獲得するところがあるだろう。 それ以外の一般では、「煩悩」は自虐的な意味でしか日常の会話では使われなくなった。本来、煩悩は自分や他者を傷つける心(怨み、怒り、後悔、依存なども含まれる)であるから隠したいものなのに「煩悩がありまして」などという。「煩悩」は、まじめに探求されていない。 そこで、 自己洞察瞑想療法(SIMT)では、煩悩に類似するものを「本音」と言い換えたが、科学的マインドフルネスがまじめにこれに取り組むようになれば、「本音」の語を返上したい。仕事そのものでは、意志的自己、叡智的自己の人でも、家族やクライエントなどを傷つけている(暴力、セクハラ、パワハラ、無用な治療など)かもしれないのだ。)
叡智的自己
 職業、家事、育児も専門家であり叡智的自己だが自覚がない
 
  • (参考)専門家のエゴイズム
  • ヴィクトール・フランクル=さまざまなレベルの自己
  • Posted by MF総研/大田 at 22:47 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL