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叡智的自己は対象的自己をみない [2013年11月06日(Wed)]

価値実現に生きる叡智的自己(6)

 =衝動的自己、意志的自己から叡智的自己へ
 =叡智的自己は対象的自己をみない

 西田哲学によれば、自己をどうみるかということについて、 人はさまざまである。浅いほうから、判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己 である。
 意志的自己よりも深い叡智的自己は,、「自分を対象的に見ることはない」という。
      「行為的自己に至って、我々は始めて見るものなくして見る自己に至るのである。かかる場合、単 に自己がなくなると考えられるが、それはいわゆる自覚面に於てあるものとして、対象的に見られた 自己がなくなるというに過ぎない、かえって我々の自己は真に見る自己となるのである。」 (『一般者 の自覚的体系』のうちの『叡智的世界』巻5、436頁)
 ところが、叡智的自己はまだ最も深い自己ではない。
      「行為に於て自己が見られなくなるという意味はそれが真に無にして見る自己となるという意味で はなくして、自覚が場所自身の直接の自己限定として見られるという意味を失うて、唯ノエマを包む という意味を有するということに過ぎない、場所が自己自身を見るという意味を失って、唯自己に於て 自己を限定するという過程的限定となるということを意味するに過ぎない。 無にして見る自己の自己限定というのを単にかかる行為的限定と見るならば、それから我々の自由 意志的自己という如きものは否定せられなければならない。」(『無の自覚的限定』のうちの『場所の 自己限定としての意識作用』旧全集6巻109頁)
 叡智的自己は、対象的に見る自己がなくなる。対象的自己ではなく、 自己は奥にあって対象・客観を包むのである。
 「 無にして見る自己の自己限定というのを単にかかる行為的限定と見るならば、それから我々の 自由意志的自己という如きものは否定せられなければならない」という。 こういう叡智的自己が 真に無にして見る自己(人格的自己)ではなく、もっと深いのが「真に無にして見る自己」である。
 自分の選んだ生きがいある価値であっても、その道の専門家になっても、世界の立場に立つわけではない。 個人は創造的世界の創造的要素であるから、世界に価値あることを選択しなければならない。 生きがいとして社 会的に害ある価値を選択して、悪の行為をしている時にも、行為的自己であれば行為の瞬間におい ては自己を見ない。だが、もちろん、真の無の自己ではない。その行為で選択している価値、行為 で見られるイデヤが悪や世界の立場を傷つける内容(*)であれば、自由意志的自己、すなわち世界の立場ではない。選択さ れる価値、そして一々の行為、見られるイデヤが世界の立場でなければならないのだ。価値の選択 、行動の一々において、我見我執(本音)に気づき、なるべく世界の立場を考慮しなければならない というのだろう。
 自己が感情的欲求的に好きだと選択した価値、および、その方向への一々の行為が世界の立場 で受容されるものでなければならない(*)。時代の変化、それは世界の変化であるがそれもある。世界 の立場で世界に受容されるものでないと、徒労、時代遅れ、市民への障害、ひいては自分の破滅に なる(*)。
 叡智的自己のレベルのマインドフルネスは、もはやセラピー(医療、心理療法)ではないかもしれない。それなりに、自分の選んだ生きがい、価値をもっているのであるから。それでもなお、自分に迷うこと、心の病気にならなくても苦しんだり(たとえば、低い自己評価、不安、死など)、人を苦しめ、社会や組織に迷惑をかけたりする(*)。やはり、深い分を探求することが、仏教や西田哲学で議論されてきたのだろう。
 こうした叡智的自己に生きるためのマインドフルネスはとても大切である。意志的自己レベルのマインドフルネスのモデルの一例を一応提示できたので、次の叡智的自己、人格的自己のマインドフルネスを研究開発していきたい。すでに粗い構想はあり、今後、少しづつ文書化、試験適用していく。多くの人も参加していただきたいと思う。これまで、叡智的自己、人格的自己の特徴を述べた(まだ一部分であるが)が、これをもう少し具体的に展開して、身につくように実践すればいいのである。
    (*)注:次の記事で最近の事件をみます。

叡智的自己
 職業、家事、育児も専門家であり叡智的自己だが自覚がない
 
  • <目次>叡智的自己
    (1)生きがいを持って生きているすべての人

     =社会に貢献する、一方、エゴイズムにより社会を害する自由も
     ☆ぶれない人生の生きがい、価値をいくつか持ってその 実現に生きている、 たいていの人がその専門領 域に没頭して我を忘れている時に限定、真の叡智的自 己は対象的に 考えられた自己が真の自己でないことを認識している。
  • (2)各人の選択した職務のスキルに専念することで世界に貢献
     =エゴイズム(本音)、隠したい本音、気づかない本音を観察
     =自覚なき叡智的自己
     ☆人は自分の夢、価値実現をめざすので自分の領域のことしかわからない、専門家の自己中心 的な態度、行動によって、人を傷つけることがある、自分の専門以外のことは知らないのに、他の領 域の専門家を否定する。
  • (3)専門家、科学、学問にもエゴイズムが起る
     ☆「否定すべきは、我々の自己の独断と我執」「世界は夢と偏見とに充満」学問・科学にも「各人の 独断、各人 の我執というものが本質的」。
  • (4)技術、科学、学問にも人のエゴイズムが働く
     =悪意があるわけではなく、その意識もなく
     =だからこそ、科学、学問をする者は我執に気づくべき
     ☆「科学も我々の個物的自己がどこまでも物となって考え物とな って行ふ立場でなければならな い」(=我見我執を去った、世界の立場)
  • (5)叡智的自己は意志よりも深い
     =叡智的自己とは
     ☆我々の意志を超越し てこれを 内に包むもの、客観界を自己実現の手段となすもの,表現となす もの,自己が考えられた自己を越ゆること,主客合一の知的直観に至ること, 自己は単に作用ではなく作用を内に包むもの,自己が自由となること自由意志となること, 自由意志とは客観的なるものを自己の内に 包むこと, 意識的自己を見ない
  • (6)叡智的自己は自己を見ない
     =しかし、真に無にして見る自己ではない
  • <続く>

  • (参考)専門家のエゴイズム
  • ヴィクトール・フランクル=さまざまなレベルの自己
  • Posted by MF総研/大田 at 21:33 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL