叡智的自己は対象的自己をみない [2013年11月06日(Wed)]
価値実現に生きる叡智的自己(6)=衝動的自己、意志的自己から叡智的自己へ=叡智的自己は対象的自己をみない 西田哲学によれば、自己をどうみるかということについて、 人はさまざまである。浅いほうから、判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己 である。 意志的自己よりも深い叡智的自己は,、「自分を対象的に見ることはない」という。
「 無にして見る自己の自己限定というのを単にかかる行為的限定と見るならば、それから我々の 自由意志的自己という如きものは否定せられなければならない」という。 こういう叡智的自己が 真に無にして見る自己(人格的自己)ではなく、もっと深いのが「真に無にして見る自己」である。 自分の選んだ生きがいある価値であっても、その道の専門家になっても、世界の立場に立つわけではない。 個人は創造的世界の創造的要素であるから、世界に価値あることを選択しなければならない。 生きがいとして社 会的に害ある価値を選択して、悪の行為をしている時にも、行為的自己であれば行為の瞬間におい ては自己を見ない。だが、もちろん、真の無の自己ではない。その行為で選択している価値、行為 で見られるイデヤが悪や世界の立場を傷つける内容(*)であれば、自由意志的自己、すなわち世界の立場ではない。選択さ れる価値、そして一々の行為、見られるイデヤが世界の立場でなければならないのだ。価値の選択 、行動の一々において、我見我執(本音)に気づき、なるべく世界の立場を考慮しなければならない というのだろう。 自己が感情的欲求的に好きだと選択した価値、および、その方向への一々の行為が世界の立場 で受容されるものでなければならない(*)。時代の変化、それは世界の変化であるがそれもある。世界 の立場で世界に受容されるものでないと、徒労、時代遅れ、市民への障害、ひいては自分の破滅に なる(*)。 叡智的自己のレベルのマインドフルネスは、もはやセラピー(医療、心理療法)ではないかもしれない。それなりに、自分の選んだ生きがい、価値をもっているのであるから。それでもなお、自分に迷うこと、心の病気にならなくても苦しんだり(たとえば、低い自己評価、不安、死など)、人を苦しめ、社会や組織に迷惑をかけたりする(*)。やはり、深い分を探求することが、仏教や西田哲学で議論されてきたのだろう。 こうした叡智的自己に生きるためのマインドフルネスはとても大切である。意志的自己レベルのマインドフルネスのモデルの一例を一応提示できたので、次の叡智的自己、人格的自己のマインドフルネスを研究開発していきたい。すでに粗い構想はあり、今後、少しづつ文書化、試験適用していく。多くの人も参加していただきたいと思う。これまで、叡智的自己、人格的自己の特徴を述べた(まだ一部分であるが)が、これをもう少し具体的に展開して、身につくように実践すればいいのである。
叡智的自己 職業、家事、育児も専門家であり叡智的自己だが自覚がない
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Posted by
MF総研/大田
at 21:33
| さまざまなマインドフルネス
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