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価値実現に生きる叡智的自己(5) [2013年10月27日(Sun)]

価値実現に生きる叡智的自己(5)

 =いきがいの実現で社会に貢献する、一方、エゴイズムにより社会を害する自由も

 西田幾多郎によれば、人は自分とはどういうものであるかという自己観についてさまざまであると いう。浅いほうから、判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、人格的自己であるという。 深い自己ほど、真の自己であるという。 マインドフルネスは、自己の探求である。 自己のありさまをあるがままにつかみ、人生の価値実現あることを実行していく。それが、マインドフル ネスである。深い自己ほど、苦悩葛藤を包むという。
 小学生ならば判断的自己であろう。自己探求しない人は、意志的自己を自己と思うであろう。意志するものが自 分と思うであろう。そして、通常は、自己探求しないので、叡智的自己的であるが、それがどういう意 味であるか自覚がなく、自覚なき叡智的自己であろう。拙著では、意志的自己までの実践を扱った。 うつ病や不安障害などやたいていの心理的ストレスの問題は、この意志的自己レベルのマインドフ ルネス実践で改善するだろう。もっと、深い問題、病気でない苦悩、専門家のスランプ、ストレスは、もっと深 いマインドフルネスが必要になるだろう。

叡智的自己とは

 叡智的自己とは、意志的自己よりも深く、人格的自己よりも浅い自己である。叡智的自己と行為的 自己(広い意味)は違いがあるが、およそ行為的自己とダブルので、しばらく区別しないでいく。
 叡智的自己は、意志的自己よりも深い。叡智的自己は意志を越える、意志よりも深いところにある。 意志を超越し て、意志を内に包むものである。
     「我々が自己の意志を超越するとはいかなることを意味するか。自己が自己の意志を越えるとは、 単に意志がなくなるということではない、単に無意識となるということではない、 意志はある目的の自 覚より起こり、その目的を達することによって消滅する。 一方から見れば、意志はかくの如き合目的 的作用である。(意志作用についての説明を略)
    かかる意味において我々の意志の奥底に考えられる真の自己とは、我々の意志を超越し てこれを 内に包むものである、我々の意志はかかる自己によって基礎づけられているの である。」( 『叡智的世界』西田幾多郎旧全集、岩波書店、巻5,134頁)
 叡智的自己(行為的自己)は、客観を自分の人生の価値実現のためのものと見る。 自分の生きがいに合致するように客観世界を構成するのである。自己の価値実現に無関係のものは 捨てる、自己の関心事ではなく、心の意識面に映さない。うまく自己の願いのとおりに世界(客観)が 見えるので、それで満足して、自分を愛することができる。生きがいを感じる。
     「行為的自己とは客観界を自己実現の手段となすもの、否、その表現となすものである(対象そのも のを愛することによって自己自身を愛するものである)。」 (『叡智的世界』西田幾多郎旧全集、岩波 書店、巻5,157頁)
 真の自覚的な叡智的自己は、自分を対象的に見ることはない。 こういう点が、自覚ないものが多い。
      「意志を越ゆるということは、自己が考えられた自己を越ゆることであり、意識が意識せられた意識 を越ゆることであり、それはいわゆる 主客合一の知的直観に至ることであるから、叡智的自己とは直 観的に自覚するもの、即ち直に自己自身を見るものである。」 (巻5,166頁)

     「我々が意識的自己の底に超越して叡智的自己に至るということは、いわゆる内部知覚の意識界 を越えて、超越的対象を自己の内に包むことであり、自己が直に客観的なるものを意識することであ るから、主客合一と考えられ、知的直観と考えられるのである。而してそれは我々の意識的自己の根 底に深き自己自身の内容を見ることであり、その極、直に自己自身を見ることであるということができ る。・・・。自己は単に作用ではなく、作用するものでなければならぬ、否、作用を内に包むものでな ければならない。自己が自己の底に自己を超越するということは、 自己が自由となることである、自由意志となることである、自由意志とは客観的なるものを自己の内に 包むことである。」(客観的なるものが対象的、自己に外的ではなくて、内に包む)(『叡智的世界』旧 全集5巻173頁)
 叡智的自己においては、客観的なるものは、対象的に見られず、自己に外的ではなくて、内に包 むのである。 叡智的自己は、目的と行動が一致している。意志的自己においては、客観を対象的に見て、目的( 人生価値)と一致しないことがあり、苦脳する。
 意識的自己よりも深いマインドフルネスは、こういう叡智的直観のトレーニングをすることになる。 仏教や襌は、最も深い自己(真の無我、自己脱落)しか説いておらずに、意識的自己の次のマインドフルネスの開発のためには、参考にしにくいが、西田幾多郎は、こうして段階的 に説明しているので、実践的、エクササズ的にマインドフルネスを開発するためには、まさに参考にできる。叡智的自己も、浅い一元観であるがなお自己があり、自己のない(無我)真の一元観ではない。叡智的自己のマインドフルネスでも解決しない問題(*注)には、人格的自己のマインドフルネスが考えられる。西田は、そこまでも論理的に記述しているから、現代の人たちは、マインドフルネスを開発できるはずである。
    (*注)自己の評価の低いことが伴う苦悩、自己の死の苦悩など。 ⇒深い苦しみ

叡智的自己
 職業、家事、育児も専門家であり叡智的自己だが自覚がない
 
  • (参考)専門家のエゴイズム
  • ヴィクトール・フランクル=さまざまなレベルの自己
  • Posted by MF総研/大田 at 22:37 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL