専門家=価値実現に生きる叡智的自己 [2013年10月13日(Sun)]
専門家=価値実現に生きる叡智的自己=生きがいを持って生きているすべての人=社会に貢献する、一方、エゴイズムにより社会を害する自由も 西田哲学は、さまざまな問題について論じていますが、私は生きていくうえでの苦悩の解決とかいきがいとか、自己存在についての視点から西田哲学を読み、解釈し、現代の現実問題の解決への実践に活用したいと思います。西田哲学は数学についても論じていますが、さっぱりわかりません。短い人生では興味もありません。自分の関心ある領域のみを自分の世界とするのが叡智的自己です。ほとんどすべてのひとがそうです。自分の関心あることを選択してそれだけを行動して、他の行為はしません。善悪の問題ではなく、それが」人間の本質です。各人が自分の選んだことをして全体の社会に貢献しています。自分が作ることができない物やサービスは、他の人(が好きで選択した職業として作ったもの)からもらいます。 例として、端的にいって、スポーツ選手は、そのスポーツのみに生きがいを感じて、そのことに人生をかけます。スポーツ選手は、学校で国語や英語を教えるスキルを学びません。心の病気の治療はしません。それぞれが選択した価値を実現していくのが叡智的自己です。 (まだ、自覚ということを問題にしていませんが) また、薬物療法で治らないうつ病、不安障害の治療のためにマインドフルネス心理療法を導入しようということに生きがいを持つひとは、今は、全国に何人おられるのでしょう。 マインドフルネスも文献研究(思考レベルであり、現実に臨床できるかどうか不明であるため)と臨床的実践(意志的行動レベル、叡智的行動レベルなど)とは、それぞれ別の時間を必要とするため、別ものです。 他の人、他の領域も同様です。人は、いくつかのしたいことを持つ時期もありますが、限られたいのちであることから、多くを捨てます。 限られたいのちの時間ですから、自分の興味あることだけを真剣にするのが人間存在です。無数の人が自分で選択したこと、選択した職業や趣味などに生きがいを持ち、行動します。 他のことには関心がなく、無知です。 西田哲学によれば、意志的自己より深い自己が叡智的自己です。さ らに最も深いのが人格的自己です。 人格的自己について、少し述べました。 (⇒人格とは) ここで、少し叡智的自己について、考えてみます。 叡智的自己は、ぶれない人生の生きがい、価値をいくつか持ってその 実現に生きている自己です。会社員、主婦も心の病気などになっておらず、生き生きと生きがいをもっていきているならば、叡智的自己といえます。だから、たいていの人、専門家がその専門領 域に没頭して、我を忘れている時は、叡智的自己と言えます。しかし、真の叡智的自 己は、対象的に考えられた自己が真の自己でないことを認識していま す。そういう点では、多くの人の叡智的自己らしいものがその 領域・問題に没頭している時だけに限定されます。 心の病気になると、希望する価値を持っているのに、実現できないと 悩みます。心の病気でなくても、生きがいがないとか、不幸だと悩むこと が多いと、叡智的自己とはいえません。 いきいきと生きている場合、一応、叡智的自己(自覚なき叡智的自己 )と言えます。ただし、本当の叡智的自己は、意識された自己、考えられ た自己を真の自己とはみません。そこまで、自分について洞察している とは限りませんが。 浅い、深いは別にして、個人が選択する人生の価値は、実現している と個人が満足できます。個人は価値を複数個持っています。 どの領域・問題でも、専門家と思う人は、自分の得意領域で社会に貢献する(善)ので、叡智的自己といってい いのですが、彼らは、自由意志を行使するので悪を犯す存在でもあると いうのです。限られた領域・問題のスキルを持つだけであり、他の領域・ 問題については、無知なのです。しかし、自分の専門領域で、社会に 貢献もする(善)一方、悪も犯す自由を持ちます。自分や自分の組織の利益を優先します。他の専門家 に回せば救われる人を、あるいは、無知により、あるいは、自分の利益のために、自分で扱うべきでないものを囲いこ みます。自分の利益のために、薬の開発の臨床試験で、データを改ざんします。 うつ病の問題でも、NHKが薬物療法絶対主義で苦労する患者を報道したことがありました。 苦しむ人がいるのを知っていながら、救済に動きません。多くの人には、関心がなく、スキルがなく、自分の職務ではないからです。人はたいてい叡智的自己であり自分の専門の領域・問題しかできないもので、できることは限られています。しかし、自分の小ささを自覚せず、うぬぼれ、傲慢、不遜になります。 そうしたことにより、最終のク ライエント、患者、国民などを害することがあります。本当に、人間とは、罪深い存在 です。自覚していれば、抑制もできます、うぬぼれ、傲慢、不遜な態度をしません。 他者を傷つけることが少なくなります。 そうしたことを元来、インド大乗仏教(特に唯識)では教えています。しかし、現代仏教にはその実践を真剣に言うことは少ないようです。大切なことが実践されなくなったことの一つです。 (人格的自己は、自分の小さいことを自覚した自己ですが、なお、悪を犯します。) このことは、西田幾多郎ばかりでなく、精神科医やフランクルも言っています。別にふれたのですが、あとで、もう一度、関連づけます。 叡智的自己には、生きがいを持ち、社会に貢献していく、まさに創造的世界の創造的要素として 働く善の側面と、専門家であるゆえのエゴイズムによって社会の発展を障害する側面があるというのです。こういう自己の本質を知っておいたほうがいいのです。 道元禅師も似たことを言うのですが、医療や教育、福祉などの現場では、襌という宗教に警戒する人も多く、NPOは特定の宗教を普及させる活動ができません(どうしてこうなったのでしょう)ので、それでは、普及が遅れますので、哲学、心理学としたいので、宗教者の言葉は 引用をさけるのがいいようです。しかし、宗教者は、そういうふうにして、現代的解釈をして現代の問題解決の支援をしていただきたいと思います。宗教に好意を持つ人もいますので。 金子みすずの詩に、浜では大漁だと喜んでいるが、海の中では悲しいおとむらいがあるという趣旨の詩があります。人間同志で自覚なく(過失犯)、時には自覚して(確信犯)そういうことをしているのです。 マインドフルネスはエゴイズムの心も観察し気づくこのように、エゴイズムの心理は、自分で気づいていない人も多くて、他者を苦しめ、ひいては、自分でも大失敗をすることによって自分をも苦しめることがあるのです。マインドフルネスが、自分のすべてを観察し気づきコントロールすることであるならば、これも観察し、気づき、自分でコントロールする必要があるのでしょう。 きづいていないと、意識できないで、思考、態度、行動に影響します。 ある作家は「隠したい欠点」「人には言いたくない自分の欠点」といい、例として「妬み深い」をあげていました。そういう種類の、隠したい、恥ずかしい心理がたくさんあります。 こういう心理を 自己洞察瞑想療法(SIMT)では、「本音」となずけました。仏教でも、似た観察すべき心理を「煩悩」といっています。仏教の煩悩に、嫉妬も含まれています。自分が高いとする高慢、自慢もそうです。 現代では、煩悩は軽蔑的、自虐的な意味合いをもって使われますので、まじめな生き方を研究していくマインドフルネスでは、用いたくありませんでした。本音として観察し、気づき、自分も他者も社会も不幸にならないようにコントロールしていこうというものです。これは、釈尊に始まる仏教のすぐれた人間洞察でしょう。現代人も、これで、争い、苦しみが起きています。マインドフルネスでとりあげるべきものです。痛みなどの感覚、認知療法でいう思考、身体の動きでもないが、人の時々刻々の行動に影響して、心の病気、犯罪、道義的悪の行動に影響しています。マインドフルネスも何を目標としているのかで、観察するもの(心理、作用)が違ってくるようです。叡智的自己 職業、家事、育児も専門家であり叡智的自己だが自覚がない
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Posted by
MF総研/大田
at 20:18
| さまざまなマインドフルネス
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