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死の不安の支援など [2013年10月02日(Wed)]

死の不安の支援など

 前の記事で、仏教や襌の思想や縛りから距離を置くのがいいと書きましたが、現代 人のために具体的な解決法をあまり提供してこなかったからです。現実の世界は激変していったのに、そこでの現実応用ができなかった。 幾人かの識者が指摘しています。

 たとえば、仏教に似た実践で、アメリカのマインドフルネス心理療法は、うつ病、パーソナリティ障害などの回復援助していますが、仏教は同じ程度に援助できているのでしょうか。 また、がん患者さんの死におびえる苦悩に現代仏教はどう援助してい るでしょうか。現代の問題のどの領域に、具体的に用いられているのでしょうか。
 一方、仏教には深い自己存在の探求がありましたから、それは、活用すべきです。 インド大乗仏教の唯識や華厳経は、他者を傷つける心に気づくこと、他者の援助への展開を強調していたようで、現代の問題の解決のために応用することでも参考にすべきことがありそうです。 現代人に貢献できるものを、蔵の中からさがすことになります。仏教はあまりに膨大で各派にわかれて、よくわからなくなりました。西田哲学は、人間(自己、人格、世界、生きること、苦悩)とは何か、根幹を抜き取って、論理的に説明してくれたようです。西田幾多郎は、道元や親鸞を高く評価しています。深いものがあると言っています。
 現代人にわかるように衣替えすることも一つの方向です。マインドフルネスの運動が全世界で広まりつつあります。仏教に似たマインドフルネスが欧米から紹介され、心理士や医師によって研究し始められましたから、宗教者が過去に執着すれば、仏教離れが加速する可能性があります。現在に柔軟に当たれば、仏教への回帰の可能性があります。ただし、世界の人や心理療法者などからは「仏教」とは呼ばなくなるようです。「マインドフルネス」と呼ばれそうです。マインドフルネスは、時代と市民の要請に応じて、変化していく。仏教は、過去の形を死守していく・・・。
 現代の人にもなお、死んでも極楽に行けるからと浄土信仰を勧めて、がん闘病の人やターミナルケアの現場で受け入れられるでしょうか。 死ぬことを思わずに坐禅しましょうと勧めるだけでしょうか。それでがんの人のすべてが納得するでしょうか。本や雑誌などで、死後の世界はどうなるのかということが論議されていました。 これは、うつ病になってからのセラピー(医療、心理療法)だけの問題ではなく、うつ病にならずにがんの闘病にはいる多くの人に待ち構えている問題です。絶対無(対象とならない自己の底)とは、無我、身心脱落などということが「自己」にかかわっているので、時代を超えたものがあるかもしれません。そこから新しい手法を開発できるでしょう。
 うつ病で自殺したくなっている人に、仏教は具体的にどう支援できる でしょうか。その宗派の教えに現代人の自殺の苦しみへの支援策を作ることができるでしょうか。
 仏教でも、深いことを言った人がいます。至道無難は「生きながら死人となりはてる」といい、盤珪は「不生」(生まれていない)と言ったそうです。 久松真一は「私は死なない」と言ったそうです。 日本には、こういう人が多かったようです。単なる思想ではなく、それ自身で存在するような実体、基体はないと仏教が否定していたことの具体的ありようかもしれません。「物となって働く」という西田哲学でいう絶対無と関連するようです。ここには、生死の問題の鍵がありそうです。もう浅い作用、感覚、思考、感情、記憶などに関わるマインドフルネスではありません。深い「自己」の消滅、すなわち、死の不安におびえる人、自己がわからず途方にくれて自傷、無茶な生き方をする人の多い今こそ仏教が生かされるのかもしれません。しかし、こういう深いことを教えて、解決まで導いてくれる本と人は少なくなりました。
 心の働き領域に、全世界規模の革新的な運動、マインドフルネスが始まったのです。まだ、2,3十年の浅い歴史ですから、感覚レベル、感情レベルのマインドフルネスはあるが、深い自己存在レベルのマインドフルネスはまだみあたりません。インド大乗仏教や哲学にはその萌芽があったようですが、宗教でない現代的に科学的(心理学、哲学を含む)に説明し、一般市民が習得可能で、効果のエビデンスのあるマインドフルネスにはまだないようです。
 仏教は、過去の人の思想は強く教えるが、それぞれの時代の現実の社会の人の苦悩の解 決支援が得意ではなかったと言われているのだと思います。
 具体的とは、たとえば、もう一つの例です。拒絶過敏性のある非定型うつ病の人が、家族と会話していて、突然怒 りを感じた時、襌がよくすすめる腹式呼吸をすることができるでしょうか。念仏や公案はどう関係するでしょうか。
 現代の人の現実の苦悩について、具体的にどうすればいいと、仏教 の教えから抽出して援助することは簡単ではありません。しかし、埋もれている宝がありそうです。欧米の人は、東洋哲学に期待しているそうです。 とにかく、昔の人の文言を実践するのに留まることなく、現代のさまざまな問題の解決法、支援法を創造したいという、心理学のようなマインドフルネスの運動が世界的に起きています。過去の仏教の特定祖師の思想重視、抽象的、一般的なものそのままではなく、 個々の問題(痛み、うつ病、パーソナリティ障害、薬物依存、学校教育、死の不安、育児、虐待、・・・)への具体的な方法を世界中のマインドフルネスの推進者が模索しています。それが、欧米のマインドフルネスだと思います。日本のマインドフルネスだと思います。
 ある意味で、深さと範囲がさまざまにある「マインドフルネス」の定義はどうでもいいかもしれません。従来の心理的手法で解決できていない現実の問題をどう支援すれば現実に解決するかが大切なのでしょう。社会問題が解決するのならば、「マインドフルネス」でなくてもいいわけです。「アクセプタンス」でも「どう生きるか」でもいいわけです。 実際、西田哲学では、マインドフルネスよりも「否定性」「自己否定」をかなり強調しています。「マインドフルネス」の先に、否定性があるかもしれません。日本には、無我、無心、無私、絶対無、自己脱落、身心脱落などの語があります。
 マインドフルネスでも、机上で考えられただけで、臨床に用いていない、具体的な社会問題に役に立たないものがあるかもしれません。 結局、第2、第3世代の行動療法よりも、もっと現代の社会問題を解決できる実践的スキルは何か研究が続くでしょう。 机上論(それは、思考=認知レベル)ではいけない、具体的な問題に、長期間実際に用いてみて(ここは長期間の行動レベル)、現実に解決される「有用性」がありそうか、そして誰かに実行してもらって、エビデンスを積み重ねていくことが大切でしょう。そうでないと、人が用いません。 仏教はそういう具体的現場、夫婦・親子間のまさに対話の現場で、病院の患者・医師の対話の現場での本当の実践者が少なくなったのです。生身の人は寺や大学の研究室の中で生きるのではなく、現実の人間世界の中で生き、死にゆく存在です。自己存在とは何かという深いマインドフルネスもありそうです。死の不安は究極的にはそこまでいかねばならないのでしょう。人の苦悩は広く深いものがあり、知れば知るほどすべきことが膨大にありそうです。一人の人間の自分の力の足りなさ、自分のなしていないことが多いのです。ある宗教者が「ひとかたは足らずとおぼゆるなり」と言ったそうです。深く知れば知るほど、自分のできていないことがありそうです。今後は、仏教や哲学の中から、現代に活用できるものを見出すときがきているのです。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3402
★がん患者の死の不安

http://mindfulness.jp/kunou/fl-gan/mokuji-gan.htm
★ターミナルケア
Posted by MF総研/大田 at 22:01 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL