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SIMTは仏教や襌の学問的論争からは距離を置く [2013年09月30日(Mon)]

マインドフルネスと西田哲学

西田は道元を深い自己否定の立場とみている

 =SIMTは仏教や襌の学問的論争や団体の解釈からは距離を置く
 =西田哲学の論理でマインドフルネスを構築

西田哲学の道元解釈

 昨日の日本マインドフルライフ協会の定例会でちょっとお話ししたので すが、西田幾多郎は、道元(ある団体の開祖であり道元禅師、親鸞上人と敬称をつけるべきですが省略させていただきます)を絶対無の立場であるとみなしています。  次の言葉では、道元の言葉を引用して、道元と親鸞は、宗教的立場(人格的 自己の立場)であるといっています。
     「道元は仏道をならうということは、自己をならうなり、自己をならうという は、自己をわするるなりという。それは対象論理的見方とは、全然逆の 見方でなければならない。元来、自力的宗教というものがあるべきでな い。それこそ矛盾概念である。仏教者自身もここに誤っている。自力他 力というも、禅宗といい、浄土真宗といい、大乗仏教として、もと、同じ立 場に立っているものである。」 (『場所的論理と宗教的世界観』旧全集11巻411頁)
  「身心脱落」は道元の言葉ですが、西田は絶対無である としています。
      「宗教的意識においては、我々は身心脱落して、絶対無の意識に合 一するのである、そこに真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪も ない。宗教的価値というのは価値否定の価値である。価値否定の 価値といえば、背理の如く思われるかも知れぬが、いわゆる価値という のはノエマ的方向に考えられた対象的価値である。・・・かかる方向にあ るものは、いつも当為的価値の否定の立場に立つものでなければなら ない、存在価値は当為的価値を否定するごとに高まるのである。」(『叡 智的世界』旧全集巻5-177頁)

現代の哲学者も

 このように、西田幾多郎は、日本の道元を最も深い宗教的なものとみ ています。哲学研究者の小坂国継氏も同じ解釈をしています。(『西田 哲学の基層』小坂国継、岩波書店、p214-248)

仏教の学問では見解がわかれている

 しかし、襌や仏教の研究者のあいだでは、道元の立場が絶対無 なのかどうかについては、見解がわかれています。激しい論争が行われてきました。 初期仏教の「解脱」が、西田哲学の絶対無と同じかどうかも、仏教研究者によってまちまちでしょう。仏教は初期仏教、大乗仏教、中国仏教、日本仏教と変貌し、また、その中が多数の派に分かれています。現代人が、仏教をマインドフルネスに用いるとしたら、どれによるのでしょうか、解釈がまちまちで互いに他を批判していて難しい問題に遭遇します。
 しかし、定義によりますが、みな、マインドフルネスの要素がありそうです。日本の武道、文化(茶道、能、華道、書道など)、芸術(芭蕉、日本画、陶芸、小説童話、詩歌など)にもありそうです。マインドフルネスは、さまざまに定義、解釈されます。
 団体になると、ある特定の経典や語録、ある人(弟子、後継者など)の解釈を絶対視することもあり、学問的な批評とか、当時とは大きく変化した現代において現実社会への適用を論じると、開祖はそんなことをしなかったと否定されかねません。昔の時代を背景にした解釈や実践で、現代の現実社会への適用、現代人の苦悩や問題解決に貢献できるのかどうか、考える必要でありそうです。歴史的に、いくつかの団体が消滅したのですが、その時代のその国の市民に受け入れられなくなったものがそうなったのではないでしょうか。

激しく変化した現代では過去の思想に縛られないでいい

 自己洞察瞑想療法(SIMT)は、そのように見解がさまざまに解釈されて いる仏教や襌の縛りからは距離を置き、どこまでも立場なき立場にある人間存在の底まで探求しようとする西田哲学を指針にすることにしました。  道元や仏教の宗教思想や団体の統一解釈や研究者の解釈によらずに、西田哲学の論理のみで構築したいと思っています。立場なき立場に徹底的に立って、自己と自己が生きる現実の社会はどのような構造になっているのか、なぜ人は苦しみ苦しめるのか、人生問題を探求しようとするのが西田哲学です。はるかに現代の社会問題の解決方向に近いです。 だから、現代人の重要な苦悩であるうつ病、不安障害のSIMTには、道元の宗教思想は全く引用しません(*注1)。
 欧米のマインドフルネスでは、日本や東南アジアの仏教に触れるものがありますが、今後、全世界は、過去の仏教の経典や襌の語録から離れて、現代の要求に応えるべく、新しい解釈を加えたマインドフルネスになっていくでしょう。新しい運動がマインドフルネスとして、全世界にひろがっています。専門家(僧侶、仏教学者)だけのものではなくて、家庭や職場、病院のベッドの中で苦しむすべての人のためのマインドフルネスになりそうです。これは、もはや従来の仏教でも襌でもないでしょう。寺院の外の現実社会の具体的実践だから、仏教、襌と呼ばず、「マインドフルネス」とよばれるのでしょう(*注2)。
 マインドフルネスを、日本語としては、私は「自己洞察」と呼びます。気づき、集中だけででは、複雑な現実社会を生き抜いていけないので。そういうわけで、マインドフルネスの解釈を、どこかの専門家(アメリカの、日本の)の解釈を絶対視してはいけないでしょう。 社会に貢献できるのか、どの領域の、どの深さまで考えるマインドフルネスなのか、 推進者によって違ってきます。

日本は宗教から中立が求められる

 最も深い人格的SIMTであっても、道元のものが、同じ立場であろうとなかろうと、団体や学問の解釈とは距離を置いて、人格とはいかなるものか西田哲学で解釈し、実践していく方向があります。宗教が尊敬されているア メリカと違って、宗教が教育やうつ病などの精神疾患、心身症の症状緩和、難病やがん患者の心のケアなど医療関係の場所、NPO活動などの場で 中立であることを要求されている日本では、マインドフルネスがすべての社会領域で活用されるためには、配慮されるべきだと考えました。アメリカのマインドフルネス開発者は、そういう苦労は無用なのでしょう。よく、仏教の言葉が引用されています。宗教を持たない人が信用されない精神風土の国では、仏教もすべての」現場で敬愛されるでしょう。

哲学は宗教ではない

 自己否定、自己脱落を西田哲学は論理的に説明しているので、 解釈が分かれることは少ないです(やはり解釈の違いがあります)。まだ自分がない、自分と客観がわかれず、言葉もない、 善悪などの評価もない原事実が、すべての人間の根底であるといいます。すべての人が、いつも、その絶対にふれているのだといいます。死の不安の問題まで、マインドフルネスを構築できる可能性があるので、私どもは、 哲学的に論理的に記述された西田哲学を現代の種々の社会問題の解決、 個人の自己洞察探求の実践化に活用する研究を続けます。 宗教や仏教の過去のテキスト(文言)を解明する学問とは一線を画して、西田哲学を実践化する方針で、応用科学として研究開発していきます。これまでは、仏教も西田哲学もあまり、現実社会の具体的解決や具体的予防に活用されてこなかったと言われています。夫婦、親子間、医師と患者の間、すべての企業組織や役場の中、がん患者の死の不安、薬の臨床試験の行動のどこに仏教があるのか、西田哲学があるのか具体的に教えられておりません。仏教も西田哲学も大学の研究室や寺院の中の学問の形、しかも、論争中の姿に留まっており、仏教が現代の(インド、中国、日本の封建社会ではなく)現実の中で社会実践化するのか、西田哲学が社会実践化するのか、全くこれからだと思います。マインドフルネスは科学であるべきでしょう。
    (*注1)しかし、道元や親鸞、キリスト教の言葉、思想、実践にマインドフルネスの要素があるのですから、道元、親鸞、聖書の思想、実践で、意志的自己レベルのうつ病、不安障害の心理療法を作りあげることも可能でしょう。それによる坐禅会や勉強の会を寺や教会で開催すれば、寺や教会に新しい信者が訪れるでしょう。治ってから感謝して、檀家・信者になる人も出てくるかもしれません。 このことは、初期仏教や大乗仏教(たとえば、唯識)や日本仏教(たとえば、法華経による)の思想、実践からうつ病の心理療法、痛みの対処法を構築することも可能であり、現に欧米のマインドフルネスは、東南アジアに伝わった初期仏教の瞑想法を活用した一例でしょう。
    (*注2)仏教の大きな変革を「大乗」と呼びましたが、今全世界にひろまっているマインドフルネスをも、仏教だというならば、「第二大乗仏教」といってよいのかもしれません。昭和に「新大乗」の言葉が提案されたことがありますが、ごく一部にしかその変革は影響しませんでした。 しかし、マインドフルネスを「第二大乗仏教」と呼ぶのは、さけるのがいいのでしょう。マインドフルネスは仏教、宗教に限定していませんから。

Posted by MF総研/大田 at 23:18 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL