「外」からの眼 [2013年09月18日(Wed)]
「人格」とは何か(10)
さまざまな段階の自己
外からの「眼」
前の記事で、仏教が過去にとどまり、新しい時代に適応していないと
いう西田幾多郎の批判を見た。つまり、仏教の専門家、すなわち僧侶や
仏教の研究者が、古い枠組みを作りそれを固守して構成員や学生を教
育していく。現代の現実社会の具体的問題の解決に、具体的にとりくむことがない。とりくむ実例がほとんどない。意志的自己レベルでさえも、知的レベル、思考レベルの説明、説法であって、具体的に仏教そのものの行為的レベルの実践でない。まして、インド大乗仏教にあった叡智的自己レベル、人格的自己レベルの実践になっていない。
幹になる部分は時代を超えて普遍的なものがあるのに、その普遍は、その時代その時代の現実社会に顕現されるべきであるのに、幹を見失い、現実社会への顕現となれず、形のみが行われる。そうなると、現代の現実社会には幹も花も示すことがない。
西田哲学やインド大乗仏教という「外」からの眼で見れば、中国襌、日本の仏教は、
いくつかの重要な点を実現できていないといわざるをえない。だから、現実の社会的実践に参考にならないということである。たとえば、うつ病自殺の予防改善に、虐待防止に、がん患者の死の覚悟に、現代の人が具体的に実践するにはどうしたらいいのか過去の仏教が提案したことはない。だから、西田哲学やその建設的な批評者、インド大乗仏教、神経生理学、臨床心理学、精神医学、さまざまな領域のNPOや研究者が持つ具体的援助スキル(たとえば、ひきこもり、いじめ、虐待防止、うつ病、がん患者の援助スキル)などを総動員して、新しく作っていかねばならない。
内部にいると、
外部の現実社会は大きく変動して、社会に貢献できなくなっていることに
気がつかない。他のすぐれたものが現れていることに気がつかない。
外から見れば問題があり、広く深い立場から見れば、問題
があるのに、内部のものは気がつかない。
こういうことが、仏教に限らず、さまざまな領域で社会に広く起きている。専門家集団のエゴイズムである
。自分の枠組みを絶対視しそれで人々を束縛し、苦痛を与
え、救済を妨げる。無知、過失、怠慢、勉強不足、慢心、執着など(仏教は元来、こういうことも重要であるとして実践的教えがある)による集団による悪である。悪とは、法律的なものではなくて、他者の苦の解決を妨げることであり、宗教的、西田哲学的な意味である。善意であろうとも、悪(他者を苦、死においこむ、救済可能性を妨害する)となる。たとえば、スキルがなくて、知識がなくて、他の専門家を紹介せず、善意から2年うつ病らしい人にかかわっていて、自殺されたら「善」とは言えない。だから、家族が倫理的に苦しむことが起きる。
スキルある専門家を紹介したら治って、自殺しなかったかもしれないのだから。
(さらに、別の苦悩も生まれる。よく知らなかったから、家族を自殺させてしまった後悔、自責に苦悩する人をどう援助するのか。そこにもまた、そういう深い苦悩を援助するスキルが、もっとほかにあるかもしれないということがある。自分に執着せず、「外」を見ていく必要がある。何でも、浅い枠組に執着して、かかえこむのは問題であるということである。西田哲学は、最も深く広い立場にたつべきであるという。さまざまな団体、組織に、我執がある。我執が人間の本質であり、人間が作る組織も我執を起す。)
哲学研究者の藤田正勝氏は次のように言う。
「西田がめざそうとしたのは、それぞれの文化を相対化し、それぞれの
文化に「新しい光」を照射することによって、それぞれの枠組みのなかで
は見えなかったものを明るみにもたらすこと、そのことを通して新たな創
造の可能性を探ることであった。」(『西田幾多郎』藤田正勝著、岩波新
書、190頁)
「第二章で、西田がめざしたのは、西洋の哲学において反省にもたら
されることなく前提とされている「人工的仮定」を取り除き、事柄を事柄と
して捉えることであったと述べた。われわれの知が知として働くとき、そこ
に同時に、そのなかで知が機能する枠組みが形作られる。知はその枠
組みのなかでのみ知として機能する。しかしその枠組み自体は知のな
かに入ってこない。そのような枠組みの存在にわれわれが気づくのは、
異なった枠組みのなかで思考する知に出会ったとき、あるいは、そのよ
うな知から光が当てられたときと言ってよいであろう。」
(『西田幾多郎』藤田正勝著、岩波新書、191頁)
さまざまなところで専門家のエゴイズムが起きる。それに気づくのは、「
外」からの光である。自分の
仏教を絶対視する枠組みやそれを批判する外からの枠組みもある。
薬物療法でいえば心理療法は外である。心理的な
援助関連では、傾聴、精神分析、認知行動療法、マインドフルネス心理
療法などはそれぞれが「外」からの眼になることができる。
したがって、ある領域に、2つ以上の集団があるのはよいことである。
一つであれば、自分の異常、自分のエゴイズムに気がつかない。それ
が生きがいになる者(ベテランの専門家)ほど、これに陥りやすい。
専門家も自分の枠組みを絶対視し執着して、エゴイズムに陥る傾向が
ある。それに気づいて、できるだけ、広く深い位置から見ようとすることを
西田哲学は強調している。詩人の金子みすずもそういう広い位置から見
た詩をたくさん作った。
マインドフルネスにも多くの流派があるので、いいことである。互いを外
から見ることができる。よいところは受容し、おかしいところは建設的に
批判するであろう。批判は、否定、排斥ではない。否定、排斥は、自分
の絶対視であって、マインドフルネスではない、エゴイズムである。批判されたら、広い立場
、クライエントの利益の立場から検討して、自己変革すべきことは変革し
ていく。それが成長となる。個人は創造的世界の創造的要素である。無数の人たちが
世界・社会を変革させていく。だから環境も社会問題も変化していく。学問も、援助手法も、環境、時代にあわせて変革創造していかねばならない。
自分を外の眼から見るキーは、日々新しいものが形成されている動揺的な世界(社会)の創造に参画できているかどうかであろう。過去に執着せず、怠慢でなく、
己をつくして、自我の立場でなく世界の立場で、世界、社会のために現実に行為できているかであろう。意志的自己を深めて、叡智的自己、人格的自己となって働く。さまざまな領域で、やるべきことが限りなく日本にある。
「人格」とは何か
参考
|
|
Posted by
MF総研/大田
at 11:26
|
さまざまなマインドフルネス
|
この記事のURL