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「人格」とは何か(8) [2013年08月07日(Wed)]

「人格」とは何か(8)
 さまざまな段階の自己

 =叡智的自己、人格的自己レベルのマインドフルネスを必要とするテーマも多い
 =セラピー(医療、心理療法)を越えた、マインドフルネスによる生き方、マインドフル・ライフ

<この連続記事は専門家向けのものです。治す段階の方は、本の範囲を理解し実践なさってください。>

 マインドフルネスの哲学と実践は、元来、東洋のものである。 自己、認識主観について西洋と東洋では大きな違いがある。 西洋は、対象を見る認識主観を自己としており、認識主観は自己自身を 知ることはできない。「自己とは何か」「自己はこれだ」と考えたり、意識 する時、それを意識しているのが本当の自己である。 西洋の対象的なみかたでは、自己自身を把握することはできない。
 西洋のマインドフルネスが盛んであるが、対象的な、痛み、感情、症状 などのアクセプタンス、マインドフルネスでは、対象的な問題の苦悩しか 解決できない。対象とならない自己存在に関する問題は解決できない 。だから、当然、対象となるものごとのマインドフルネスだけではなく、 対象とならない「自己」についてのマインドフルネスが求められるように なる。東洋的なマインドフルネスは、哲学者が参加すれば、すぐれたものが早く 開発できるだろう。
 西洋哲学では、二元観だから、対象とならない自己についてのマインドフルネスは開 発が難しいだろうが、東洋哲学では、一元観であり、自己自身を探求している。 意志的自己を 越えた底に叡智的自己があり、さらに、叡智的自己のかかえる問題はそ の奥底に人格的自己があるとされる。人格的自己は、絶対に対象となら ない自己の最も底(絶対無) が、そこに於いて底自身を見た(対象的にでなく)ものが人格的自己である。自己なくして見るものである。
 叡智的自己は、意志的自己を越えて、世界を自己とする価値実現の自己であり、自由の意志を持つが、絶対無の自覚はない。
 通常は、自分の選んだ人生の価値を実現する行為によって満足しているが、それでも自己存在の不安、自己存在についての不明に悩むことがある。そうなると選んだ価値までも迷いを起し、価値や自己について葛藤を起すものがある。
 マインドフルネスとは、やはり自己のさまざまな問題、葛藤を解決する ためのものであるとすれば、絶対に対象とならない自己についての葛藤 、問題に遭遇して、解決法が求められよう。ここに、東洋的マインドフル ネスが必要となる。叡智的自己とは、そうした葛藤を乗り越えている自己であり、 セラピー(医療、心理療法)を越えた、マインドフルネスによる生き方、マインドフル・ライフ に生きることと言ってもいだろう。

叡智的自己の悩み

 しかし、叡智的自己が、創造価値や体験価値を生きがいをもって生きていながら、奥底で苦しみを持つことがあるだろう。
 対象的なものごとについての苦悩ではなく、自己存在が関連する問題 の例として、虐待やDV、性犯罪の被害者などの自己評価の低下や自 己否定の回復である。もう一つの例は、死期を意識したがん患者、難病 の患者などの死の不安、つまり自己存在の消滅の苦である。 こういう苦悩は、対象的な悩み、対象的な価値実現などについてマインドフルネスの 生き方をしていても、自己存在の不安、自己自身の否定におび やかされるだろう。マインドフルネス的な人生を生きているように見えても、 奥底で苦悩をかかえるかもしれない。 日本では、このように深い自己存在にかかわる問題が多く、 深いマインドフルネスの解決法が求められるのである。叡智的自己のマ インドフルネスや人格的自己のマインドフルネスとなるだろう。 試案を作り、 クライエントの方に試していただいて、効果を検証しなければならない。 意志的自己までの方法は意識的、対象的なものであるため簡単であったが、 意識の奥の自己についてはたいていの人は知らない領域であり、そこにかかわる マインドフルネスの開発は容易ではないだろう。 哲学者の参加があれば、すぐれたマインドフルネスを開発できるだろう。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/2734
「人格」とは何か【目次】
Posted by MF総研/大田 at 21:12 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL