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「人格」とは何か(7) [2013年07月29日(Mon)]

「人格」とは何か(7)
 さまざまな段階の自己

 =自己の根底では自己が消され、そして自己が生まれる

<この連続記事は専門家向けのものです。治す段階の方は、本の範囲を理解し実践なさってください。>

 先に我々の自己の根底では、時が消されているという西田の言葉があったが、そこでは自分も消され、そして、自分が生まれるともいう。
 西田幾多郎は次のようにいう。
     「個物が個物自身の底に絶対の他を見るということは、自己自身の底 に絶対に自己自身を否定するものに撞着するという意味をもっていなけ ればならない。かかる意味において絶対の他と考えられるものは、私を 殺すという意味をもっているとともに、我々の自己は自己自身の底にか かる絶対の他を見ることによって自己であるという意味において、それは 私を生むものでなければならない。」(『私と汝』旧全集6巻401頁)
 人はみな、人間(自己)が決して対象的に見ることができない根源的なものを持っている。絶対の底を見るということは、自分が全くなくなることである。自己の死である。だが、そこにとまらず、自分と客観、言葉、苦悩、時間空間などに分節化する。
 人はみな自己の底に自己が全くなくなり否定されている事態が起きて いる。高速で推移しているので意識できないし、対象的ではないので意識できない が、現実である。 絶対無、絶対の他によって自己がなくなるので、私が殺されている、死 んでいる。しかし、ただちに、そこから自分や世界が生まれる、自分が絶対無に包 まれていることを自覚する。自己が生まれるのである。絶対無の自覚に よる人格的自己である。
 絶対の他は対象的に見られるものではない。自己自身がないので、 対象的にはみられない。 私は、時々刻々と死んで、生かされているのである。
      「我々が自己自身の中に絶対の他を見るという時、それは深められ 広められた自覚を意味するものではなくして、自己自身を否定する意味 をもっていなければならぬ。我々は自己自身を否定することによって肯 定するのである、死することによって生きるのである。そこでは個物が個 物を限定する、点から点に移ると考えられねばならぬ。」 (『私と汝』旧 全集6巻417頁)
 自分の底に絶対無、自己を殺す絶対の他を見ること、その絶対無に おいて自分が生きてあることを自覚する。人はみな自己の底に、宗教では神とか仏性とか言われて いるものがあり、その絶対の底から自己が生まれる。そういう意味ですべての人が人格的自 己として尊厳されなければならない。人間は対象的に見られる物ではない。根源 に神のような力、すべてのものを生み出し、世界を創造する力をもつ存在である。抽象的なものではなくて、実存である。すべての人が相互にこのことを認めることが人格を認めることである。
 西田においては、身体とは別に死後、もぬけて抜け出ていくような自 己(実体ということになる)は真の自己ではないとされている。鎌倉時代の道元もそういった。日本人の多くが、そのことを探求し、言葉、芸術、社会的実践で表現してきた。今、マインドフルネスといわれているものの、最も深く最も広い領域をカバーするのが西田哲学でいう絶対無であると思う。起きた現状の自分の不快事象の受容の局面だけではなくて、世界の中に世界の不快事象を見つけて他者の苦悩の解決に向けて価値実現の行動に乗り出すマインドフルネス、世界の未来創造の局面に深いマインドフルネスがある。自分だけの不快事象の受容のマインドフルネスにとどまらず、世界の人々の不快事象(苦悩)の他者による受容のためのマインドフルネスがある。そここそ、東洋的マインドフルネスの真骨頂であろう。日本人は、深い問題で苦悩するひとが多い。
 世界のため、他者のために行動する人には、自分の魂の死後のことなど考える余裕はない。 魂、自己を忘れて見、自己なくして考え、自己なくして世界創造に参画していくマインドフルネス。この人生はたった一度である。世界、歴史が移り変わっていく。生物的に死んだ後、もう二度と、父母があい、個性あるこの「私」 が生まれることはない。この人生を、この生命を大切にしなければならない。西田哲学はさまざまな人生の事実を教えている。
 重ねていうが、たいていのうつ病、不安障害は、意志的自己レベルのマインドフルネスで改善する。苦悩の内容が対象的だからである。だから、難しいスキル、難しい心理療法ではない。 心理士が習得して、数人で結集して自活できる形態を作り、長く苦しむ患者家族の援助をしていただきたい。一人では難しいが数人が結集すれば、かなりのことができそうである。
 うつ病には「自殺願望」があるが、それは対象的なことによって病気になったからであり、対象的な問題の対処ができれば、自殺願望は消える。苦痛のもとは主観側の自己自身の問題ではない。 だから、対象的マインドフルネスで改善して、希死念慮・自殺念慮は消える。 一方、がん患者の死の恐怖は、意志的自己そのものの消滅の苦悩である。すべての対象的なものの満足があっても改善しない苦悩である。対象的マインドフルネス、浅いマインドフルネスでは効果が弱い。対象的なものの不快事象の受容ではない。
 マインドフルネスには、さまざまなレベルが考えられる。誰もが実践してほしいレベルは、意志的自己のレベルのマインドフルネスである。だが、それで解決しない深い苦悩もあるから、それは 西田哲学でいえば、叡智的自己、人格的自己のレベルのマインドフルネスがあるべきである。そのレベルで苦しむひとがいて、援助しなくていいはずがない。意志的自己レベルは、対象的なことについての苦悩である。しかし、たとえば、がん患者の死の不安は、自己存在にかかわる苦悩である。無視、放置していいはずがない。対象的なものの苦痛の無評価の観察、受容ではない。がん患者さんの心のケア、ターミナルケアの段階のマインドフルネスがあるべきである。ほかの領域にもあるかもしれない。犯罪の被害者、養育環境やDVなどによって形成された自己自身の評価が極めて低いために苦悩する人々も、そういう深刻なレベルかもしれない。
 残念ながら、宗教といわれる仏教宗派の方法は、普通の庶民のそういう苦悩について導いてくれない。今や、庶民への布教が制限されていた封建社会ではない。多くの人がかかえて苦しみつつ、放置されている死の問題を援助できないのだろうか。



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「人格」とは何か【目次】
Posted by MF総研/大田 at 20:31 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL