フランクル、西田幾多郎に学び宝を掘り起こす [2013年04月12日(Fri)]
価値実現のためには身体と心と精神が=フランクル、西田幾多郎に学び宝を掘り起こすフランクルは、3つの価値を提案した。 創造価値、体験価値、態度価値である。だが、創造価値、体験価値を持 っていたかにみえていた人が、さまざまな出来事によって、 うつ病や不安障害になり、身体の病気にもなり、自殺も起きている。 2つの価値の持続的な遂行のためには、何かが必要なのだ。 価値実現のために働くのは自己の身体、心、精神(心より深いもの)であろう。思いどおりに ならないことが起きるのが人生であるが、その人生に意味を問われているという 。うつ病になるということは、みつけていたと思っていた意味をとらえ そこなっていたということだろうか。表面的な「心理」だけで価値をみていたせいだろうか。 フランクルは、身体と心の奥の「精神」 「内在」「現存在」を強調する。深い精神、内在、現存在を基礎にした、創造 価値、体験価値、態度価値でないと、価値実現の人生を持続させることは 難しいと言っているのだろう。 こういう深い精神については、日本では多くの人が教えてくれてきた。 日本的霊性をいい、表現し、行動してきたひとたちだ。 (⇒こちら) それも「金庫」に保管されているから、現在の私たちも、触れることができる。そういう深く、長い(永遠)世界(=自己と一つ)について、論理的に説明したのが西田哲学である。他の人は、宗教経典、宗教者の救済実践(慈悲の実践)、茶道、絵画、詩、俳句などで表現してきた。 こういう視点から、ロゴセラピー、マインドフルネス心理療法、西田哲学との結合が見えてくる。表面の 心理現象の奥に、意志作用があり、その奥に意志するもの=意志的自己が あり、その意志的自己の住む世界、叡智的世界(おそらくフランクルのいう「内在の部屋」)がある。叡智的世界は、フ ランクルの内在に、現存在は、意志的自己、叡智的自己、人格的自己に相当するのではなかろうか。叡智的世界の最も奥が「良 心」だという。意的叡智的自己という。フランクルも良心をいう。 さらに、叡智的世界の奥があり、超意味の世界というが、西田哲学でも、 良心、意的叡智的自己の奥に、宗教的世界があるという。 通常は、創造価値、体験価値を持って生きていく智慧、心があればいい のだろう。だが、最期の瞬間まであるという、態度価値は、宗教的な意味 を帯びているのではないか。「夜と霧」で紹介された、木と語る少女は、 宗教的世界を見たのである。死期が迫っているのに、深い世界を見て、感謝している。この苦悩にあわなかったら、このすばらしい深い世界をみることができなかったはずだから。 こうした、自己を深く洞察していく方法は、東洋にはあったと西田哲学はいう。だ から、西田哲学は深い世界、自己を論理的に説明したのだ。方法は、仏教の実践にあ ったようであるが、現代の人には見えなくなってしまったのだろう。仏教の専門家よりも、芸術家が表現している。 過去にあったものは、現在もあるとフランクルはいう。西田哲学も、現在 に過去と未来があるという。過去の宝が保存されているが見えなくなっているのだ。それを発掘して、 現在に活用するようにと、フランクルも西田幾多郎も言っているのだろう 。欧米のマインドフルネス心理療法者が発掘し始めたようだ。マインドフルネス心理療法者は、フランクルの「発掘会社」と合弁事業ができるかもしれない。両方がある欧米でそれができるのではないだろうか。ロゴセラピーとマインドフルネス心理療法は、ともに、深い宗教的立場、すべての人の絶対平等までみすえているので、今後、欧米ですばらしい精神療法として、すべての人の生き方として、宗教(一神教が多い)を越える生き方の体系が構想されていくかもしれない。 (続く) |