「なぜ生きる」のかという問いは間違いである [2013年04月06日(Sat)]
人生の苦しみにどう向きあえばいいのか・フランクル4回目(4)=「なぜ生きる」のかという問いは間違いであるNHK Eテレビで、3月27日、フランクルの「夜と霧」の4回目でした。それ について考えています。 人生には苦悩がつきものである。仕事、病気、愛するひととの別れ、自 分の死など苦 悩が必ずある。 そんな時、「なぜ生きる」のかという問いがなされるが、それは間違い だとフランクルはいう。(pxx)はNHKのテキスト。 「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、む しろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。・・・わ れわれ自身が問われた者として体験されるのである。」フランクル (p43) これを受けて、諸富先生「人がみずからの主観で人生に意味があるか ないかを決めうるとして、人生の意味を問う構えそのものが、そもそも傲 慢なものだということになります。」(p43) 「人間が人生の意味は何かと問うに先立って、人生のほうが人間に問い を発してきている。だから人間は、ほんとうは、生きる意味を問い求める 必要なんかないのだ。 人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求め て人生に問いを発するのでなく、人生からの問いに答えなくてはならない 。そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答え でなくてはならない。」フランクル(p46) このすぐあとに、諸富先生の説明。 「私たちがなすべきこと、行うべきことは、私たちの足下に、常に送り 届けられてきている「意味と使命」を発見し、実現していくこと。」 (p47) フランクルはいう。「なぜ生きる」かではなくて、「誰かのために何が できるか、何かのために何ができるか」である。自分のいる場所から離れ ず、そこで、使命を果す。他の場所に理想郷をさがしてはいけない。 (いじめがひどい、先生が助けてくれない学校からは、離れてもいい。これは、別である。自分の個性的な本分=家庭や職場=を放棄して、統一的、全体主義的な目的をいうカルトなどに行かないことを願う。援助は、やはり、一様には行かない。待機説法、個別支援も重要である。膨大な量の本では、読者が自分に該当することを探しあてることは難しい。)
西田哲学と類似するフランクルの哲学思想フランクルのいうことは西田哲学(私の西田哲学解釈)から見れば、わ かりやすい。人は、世界の中に生まれて、世界の中で生きて、世界の中で 死にゆく。この世界は、絶対者が創るのではなく、人間が創るのである。 今、世界中の人間が30日間、働くことをやめてみよう。どうなるか。農作業しない、収穫しない、漁業もしない、電車は走らない、 食料が配送されない、売る 店も閉店、病院の医師も働かない、電気も止まる、インターネットも止ま る、原発では爆発が起きる。世界中の人間が、すべて死ぬであろう。この世界は、絶対者が創造するのではない。人間が世界を創る。だから 、「なぜ生きる」かではなくて、「自分は、何をすることによって世界の 創造に参画すべきか」である。足下、つまり、自分がいる場所、家庭、職 場、病院で何ができるかを発見するのである。その時に、創造価値、体験 価値、態度価値という見方で、生きる意味を発見しようというのである。 自分はたった一度、この世界に生きる機会を与えられたのである。だから、この世界の創造に参画するのである。自分だけが参画しなくていいという論理はない。何でもいいから、今ここで、自分でできる小さなことを探す。小さな使命を果す。そうやって小さな使命による行動の輪の相互作用、累積によって、すみよい環境、故郷ができる。 他者を苦しめる悪事は世界を崩壊させる。他者を奴隷のように束縛する者のいいなりになってもいけない。愛する人、社会のためにできること、創造価値、体験価値、態度価値を探す。よその場所ではなく、家庭で学校で職場で病院で、地域で。 ただし、目前に見える世界、足下、人生というものは、心理的に見るような水平の世界ではない。心理と身体の底に「精神」「内在」があるという。鈴木大拙のいう「日本的霊性」だろう。西田哲学でいう叡智的世界であろう。さらに、もっとも深い、一人類教、おそらく、西田哲学の絶対無に基礎づけられた世界がある。 だから、人生=目前の世界が見えにくいという問題がある。だから、医師や心理士(そして聖職者)が意味の発見の援助をするのであろう。フランクルは傾聴ではなく、よく語った。日本は、傾聴が多いが、孤独による苦悩には、傾聴が効果的だろう(そのほかにもあるだろうが)が、孤独ではない苦悩もある。不安、抑うつ、回避、集中力低下、意欲の低下、激しい怒りなどは必ずしも孤独ではないし、傾聴だけでは回復しない脳関連の変調がある。 苦悩の特徴によって、適切な支援手法が選択されるべきである。ひとつを絶対視するのはいけない。人の苦悩はさまざまである。 西田幾多郎が最後の論文を書いたのは、昭和20年4月であった。2か月後 、死んだ。終戦を迎えず。フランクルはその頃、収容所に居た。自由のな い状況で、同じ頃、東西で類似の哲学が生まれた。そして、これまで、十 分に生かされてこなかった。そして、不思議にも、同じく東西で今、マ インドフルネス心理療法やロゴセラピーに期待が集まっている。やはり、 人間の底の底に、共通の根源があり、呼びかけられているのだろう。この記事で一つの側面を見たが、 フランクルと西田哲学は、類似点が実に多いように見える。それは豊かな金庫であるが埋もれており、あらゆる領域の専門家が意味を発見できるだろう。そこからも発見できるものがある。 「なぜ生きる」かではなくて「何ができるか」である。今いるところで。 (続く) フランクルのこと
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