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人間は最期まで生きる意味がある [2013年03月23日(Sat)]

創造価値、体験価値、態度価値=フランクル
 =人間は最期まで生きる意味がある

 このあいだの水曜日は、フランクルの「夜と霧」の3回目でした。ナチスの強制収容 所を生き抜いた精神科医が、生きる意味を伝えている。 死が迫っているという時や、生きることがつらい時にも「生きる意味」があるのかとい う問いが発せられる。
 フランクルは、生きる力を与えてくれる3つの価値があるという。  創造価値、体験価値はわかりやすい。創造価値は、愛する家族や社会のためになるこ とをすることに生きる意味を見出す。仕事は何でもこれになりうる。 体験価値は、美しいものを鑑賞したり、旅行したり、趣味のことをしたり、 さまざまな体験をして感動したり、よろこびを感じる。極限状態の中でも、感じること ができるはずだという。価値は一つではない。創造価値、体験価値のいくつかを持つことができる。
 愛する人に死なれてうつ病になっている人が生きる意味を発見する例が紹介されたが、 うつ病は深刻な病気であり、思考判断力、意欲が低下していて生きがいを見出すことが難しい場合も多いようだ。たとえ見出す ことができたとしても、病気としてのうつ病は、それだけでは治らない。前頭前野、海馬、副腎皮質ホルモンなどに変調がある。治療して回復 しないと自殺の危機はなくならない。そこで自己洞察瞑想療法(SIMT)では、価値を思いうかべて、その中間に「治る、治す」という暫定価値を設定していただく。その価値に向けて、今ここの瞬間の「目的」を起し、改善のための意志的行動を起していただく。目的行動は意志的行動である。長期的価値(創造価値、体験価値、態度価値)をもって、今ここの目的行動を起す。

不思議な態度を見せた女性

 態度価値はわかりにくい。どんな状態に置かれても、ある態度をとることができる。 この価値は死の最期まで失われない。
 解説の諸富祥彦明治大学教授は、死にゆく女性が宗教的な態度をとった例を紹介され た。(「夜と霧」p116)
 チフスにかかっていた女性にあった。まもなく死ぬことがわかっていた。彼女は快活 であった。フランクルに語った。
 「運命に感謝しています 」(死に直面しなかったら自分はこんなに成長できなかった、永遠のいのちに触れることもなかった、つらいかったけれど、この運命に感謝する=かっこ内は大田の解釈)
 「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」「あ の木とよくおしゃべりをするんです。」「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の生命だって・・・」
 「永遠の生命」と言っている。西田哲学や襌の立場から見れば、理解できる。 彼女は木に絶対者(神)を見ている。神は、常に自分に同伴している。遠藤周作もそういう。
 日本の哲学者久松真一はこういう。「神は一切処、一切時に遍在している」「それで あるから神は永恒の今である。永恒の今ということが神の無限創造の真相である。」 (「東洋的無」講談社学術文庫、p198)
 「私はここにいる。永遠の生命だ」というのは、絶対者だろう。「私」という神がこのベッドにいてまもなく死ぬ自分のところにもおられる。彼女は、若くして死に直 面するという極限に見舞われて、そのことによって苦悩の限りに苦悩して、絶対者に触れる体験をして、宗教 的回心が起り、この運命に感謝している。フランクルによってこの境地を得たのではな さそうだ。「わたしは当惑した。」というから。 態度価値は自分で発見すべきものだといい、精神科医は扱わないとフランクルはいう。 宗教的意味を発見する援助をするのは「聖職者」=専門の宗教家であるという。 (これからの日本では、マインドフルネス心理療法のカウンセラーがこの役割を果すかもしれない)
 フランクルがいうように、死に直面する人は、成長する機会を与えられていると思う。自分にも死の扉が近くにあるという人でないと、この成長の機会の扉に入らない。私は医者でないから、 死に行く人は、家族や友人など少数しか見ていないが、少数でありながら、すばらしい死に様を見せてくれている。人は最期のときに大きく成長するのだろう。
 死にまつわる苦悩が最もつらい。 現代の日本でも、宗教的な救済をも必要とするひとは多いのではないだろうか。死を意 識するがん患者さん、愛する人を突然失った人たち。
 マインドフルネス心理療法は、宗 教ではないが、宗教への扉が開かれているだろう。 西田哲学でいえば、叡智的自己まで宗教ではない。良心、道徳的自己も宗教ではない。その先に宗教への扉が開かれているという。5月発売の今度の本の自己洞察瞑想療法(SIMT)は、浅いもので宗教とはほど遠いが、これでたいていのうつ病、不安障害は治る、治らない症状は、受容する心に成長できる。どの治療法も絶対的なものはないのだから、どの支援者も他の治療法への扉を開いておくべきである。「これしかない、これを一生やりなさい」という自己(の考え、治療理論)絶対視はひかえるべきである。クライエント、患者さんを自分の理論にとじこめてはいけないと、ある精神科医が言ったように。
フランクルのこと
Posted by MF総研/大田 at 22:17 | フランクル | この記事のURL