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インド、中国の仏教、襌は出離的(6) [2012年11月08日(Thu)]

インド、中国の仏教、襌は出離的(6)

 インド、中国の仏教、日本の襌が出離的であったと仏教の研究者が指摘しているのを見ています。 こういう考察するのは、クライエントの利益を考えたいためです。マインドフルネスは、医療の領域でも、自己成長・自己実現の領域でも貢献できそうだと思われているようですが、必ずしもそうではないかもしれないからです。マインドフルネスはヴィパッサナー瞑想や襌に似たところがあります。 しかし、そのままでは、そういう効果があるかどうかは、明確ではありません。そのままでは、心の病気の人はできませんし、動機づけもない(=ということは検証されていないから患者さんが信じない)し、実際、それをそのまま実践すれば、心の病気が治るということを検証してきませんでした。
 マインドフルネスも、こういうふうにすれば、こういう影響があるから、病気の改善になる、自己成長になるという因果関係の仮説を作り、検証しなければならないでしょう。
 認知療法は、認知(思考)が行動に影響するというすぐれた理論があります。 マインドフルネスの場合、感覚と行動、感情と行動、感覚や感情と思考との関係、思考と行動の関係など、説明が必要になるでしょう。
 そして、特に、マインドフルネスは、自己成長の効果があります。人生観、世界観の変化がみられるクライエントが多いのですが、自他不二的見方に近づくからではないかと 思います。
 心の病気(うつ病、非定型うつ病、過食症、人間関係の不和など)を治すつもりでマインドフルネス心理療法(自己洞察瞑想療法)を実践すると、病気が治るだけでなく、副産物のように、他の点で予想していなかった利益を得るのです。他の点でも変化があるのです。このことは、 「法華経」の、「3車のたとえ」「白牛車のたとえ」に似ています。予想もしなかった「ごほうび」をもらえるのです。
 自他不二的自己観も、多くの古人(世阿弥、利休、松尾芭蕉、西田幾多郎など)が指摘してきたのですが、彼らも動機は、苦しみの解決だったようです。それを実践してみたところ何かを見たらしく、能、茶道、俳諧、哲学などの副産物を生み出しています。それぞれ、個性ある生き方をしています。 こういうことが自己成長、自己実現ということになるのではないでしょうか。 (「3車のたとえ」の詳細は、次の記事で)

インド、中国、日本の仏教は出離的

 =日本の仏教も外部の人々の現実苦の解決支 援の手法に熟練していない
  • (1)
    西田幾多郎は仏教の現状を批判した
  • (2)
    坐禅が仕事のような状況であった僧院での仏教は 感情が渦巻くような職場、家庭でどうすればいいのかわかりにくい
  • (3) 昔の仏教は同じような状況が続く僧院の中で発展したので
    現代人のように、家庭や職場のように激しい感情が渦巻く状況は少なかっ た
  • (4)
    現代人の苦の解決レベルのことを参考にできる仏教研究書は少ない
  • (5)
    封建時代の仏教は民衆の苦の解放を説くことができなかった
  • (6)
    マインドフルネスを1年受けると病気の改善のほか人生観の変化がみられ る
  • (7)
    仏教はわかりやすいごほうびで誘って、予想しなかったごほうびを与える
  • (8)
    元来、仏教の目的は「現実の苦」の解放だったはず
  • (9)
    1)深い根底の「自他不二」の哲学が失われた。 2)教団の外部の人の現実の苦悩を解決する活動「慈悲」の実践が なされてこなかった。
  • (10)
    「難しい言葉を使ってわけのわからぬようなしかたで述べることは「骨董 趣味」ではあるかもしれないが、それはもはや「仏教」ではないのである 。」中村元氏)
  • (11)
    自 分だけ救われて、他者にやさしく説かないと死んだ仏教。浄土真宗の蓮如上人もそう 言ったと中村元氏。
  • (12)
    遠藤周作は、日本的なキリスト教を作った。自分の悪を 監視し罰する厳しい父のような神ではなく、 いつもそばにいて自分の悲しみや苦しみ を包み込んで、一緒に背負ってく れる「母なるもの」「永遠の同伴者」であるような 神。やはり、自他不二的である。
  • (13)
    宗教としての仏教は心の病気などを扱わないので、マインドフルネスとは違う。
Posted by MF総研/大田 at 06:34 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL