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インド、中国の仏教、襌は出離的(5) [2012年11月07日(Wed)]

インド、中国の仏教、襌は出離的(5)

 インド、中国の仏教、日本の襌は出家向きである。中国や日本の襌は、 僧院、寺院で修行された。 自給自足か荘園からの年貢、檀那からの布施で食べていけた。その中で、 一生かけて仏道をすればよかった。食べ物の心配は、トップが考えた。
 師弟関係、序列が決まっていて、絶対だから、反論はできない。 どうしてもいやなら、別の寺院に移ることが自由だった(中国)。日本で も鎌倉時代はほぼ同様であった。こういう環境では、人間関係の葛藤の感 情は長くは続かない。師に従い、従えなければ、出ていった。そういう環 境では、人間関係の葛藤についての禅的、マインドフルネス的な鍛錬はさ れない。
 しかし、現代の在家が生きる場では、人間関係の葛藤で起きる感情が頻 繁におきる。夫婦、親子、教師と父兄、教師と生徒、医師・看護師と患者 、職場の同僚、上司、顧客・・・。当事者が上下関係ではなく、見かけ上 は、対等だからそれぞれが自己主張する。それで感情が起きる。そして、 関係を絶って出ていくことは難しい。感情が長引き、暴言、暴力、憎悪、怨みになる。受容できないと心の病気になる。人を苦しめる我執、自分の独断的枠組みにあてはめることを洞察して捨てなければならない。そのように、仏教、道元や西田哲学は教えているはずである。それはとても難しい。しかし、実践しなければ、自己や他者を苦しめて、人間関係が破綻すつ。
 現代の人は、感情や我執をマインドフルネスで観察して、アクセプタンスし て、マインドフルネスで行動しなければならない。また、感情をひきおこす原因となる、主観的、独断的、自己中心的な枠組み、欲求、衝動を洞察しなければならない。出離的な仏教では、とてもかなわない状況にある。
 すなわち、対人関係で渦巻く感情についてのマインドフルネスでなければ、 現代人の貢献に限界があるだろう。しかも、感情には浅いレベルのものと深いレベルのものがある。痛みがつらい感情と夫婦関係や親子関係、生徒教師の関係、職場の上下関係におきる感情がつらいのとは違う。死の不安もレベルが違う。感覚や行動レベルのマインドフルネスでは、複雑な現代にはとてもまにあわない。現代の日本には、さまざまな感情、その苦しみがある。

インド、中国、日本の仏教は出離的

 =日本の仏教も外部の人々の現実苦の解決支 援の手法に熟練していない
  • (1)
    西田幾多郎は仏教の現状を批判した
  • (2)
    坐禅が仕事のような状況であった僧院での仏教は 感情が渦巻くような職場、家庭でどうすればいいのかわかりにくい
  • (3) 昔の仏教は同じような状況が続く僧院の中で発展したので
    現代人のように、家庭や職場のように激しい感情が渦巻く状況は少なかっ た
  • (4)
    現代人の苦の解決レベルのことを参考にできる仏教研究書は少ない
  • (5)
    封建時代の仏教は民衆の苦の解放を説くことができなかった
  • (6)
    マインドフルネスを1年受けると病気の改善のほか人生観の変化がみられ る
  • (7)
    仏教はわかりやすいごほうびで誘って、予想しなかったごほうびを与える
  • (8)
    元来、仏教の目的は「現実の苦」の解放だったはず
  • (9)
    1)深い根底の「自他不二」の哲学が失われた。 2)教団の外部の人の現実の苦悩を解決する活動「慈悲」の実践が なされてこなかった。
  • (10)
    「難しい言葉を使ってわけのわからぬようなしかたで述べることは「骨董 趣味」ではあるかもしれないが、それはもはや「仏教」ではないのである 。」中村元氏)
  • (11)
    自 分だけ救われて、他者にやさしく説かないと死んだ仏教。浄土真宗の蓮如上人もそう 言ったと中村元氏。
  • (12)
    遠藤周作は、日本的なキリスト教を作った。自分の悪を 監視し罰する厳しい父のような神ではなく、 いつもそばにいて自分の悲しみや苦しみ を包み込んで、一緒に背負ってく れる「母なるもの」「永遠の同伴者」であるような 神。やはり、自他不二的である。
  • (13)
    宗教としての仏教は心の病気などを扱わないので、マインドフルネスとは違う。
Posted by MF総研/大田 at 19:00 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL