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西田哲学は「観想主義」ではない、現実の社会での行為 [2012年07月18日(Wed)]

西田哲学は「観想主義」ではない、現実の社会での行為

 日本のあちこちで、こどものエゴイズム、専門家のエゴイズム的な行動がみられる。 それで、その生きる社会を暗いものにしている。そうした行動をしないようにと、自己なくして行為することがよりよき社会を創造すると教えるのが西田哲学であると思う。  西田哲学を「観想主義」と批判、否定することが当時から現在までもあるようであるが、そうではないと板橋氏は主張する。西田哲学の自己の立場を捨てて、世界の立場でということ (もちろん完璧にはできないが一歩でも) は、 現実の社会の場で、行為することである。西田が、人の根源を襌や念仏の人(そこまで行為するのは、もちろん、ごく一部)にも見られるので、「宗教的立場」とも称したので、坐禅のような瞑想主義だろうと誤解される。 宗教者だけにあるのではない。宗教者の「観想」にみられるのではなく、現実の社会の現場で、できるかぎり自我の利益に偏らず、他者が受容できないような行動ではなく、意識的自己なくして世界の一要素の立場から現実の社会の変革・創造にあたることを宗教的立場(個人の利益の立場ではない、個人が生きている世界を創造する立場)と言ったものと思う。自己は創造的世界の創造的要素として行動するのである。瞑想のことではない。 板橋氏がこれを説明している。
     「西田のいう宗教的立場とは、「個人主義」「自由主義」「神秘主義」による立場を意味するものではありえないし、現実社会の様々な矛盾や問題を単に「観想」し、「諦念」的に包容するものではありえない。この立場は、我々の自己が歴史的現実の変革・創造を、我々の自己(の差配と統括)においてではなく、歴史的現実の世界の本来的な必然の運動それ自身において実践する立場であり、・・・ その唯一無二の創造的な要素・焦点として実践する立場に他ならない。歴史的現実において、およそ我々の自己のいかなる行為も、それは我々の自己が自己自身を根拠として歴史的現実を統括しようとする自己基体化・実体化への全き否定を媒介として、あるべき本来の「個性的」なありようを実践する。」 (板橋勇仁「歴史的現実と西田哲学」法政大学出版局、304ページ)
 専門家個人の利益(めんどうなことをしたくない、こわい人から苦情を言われたくない、自分の責任を追求されたくないなど) を優先して行動して、それが、自分の生きている社会の後退、破壊を招くという自覚がなく、個人の都合を優先した行動をする。
 こうしたことが社会の沈滞化、崩壊を招くから抑制していくべきなのであるが、西田哲学がいうことを「実践」しなければ、現実化しないのである。人は自由意志を持つから、エゴの行為、悪の行為をもする。専門家でもそれをする。自己の利益に偏る行為は自分が生きる社会を崩壊させる。学校、職場、役場が暗くなっている。自己が社会の一要素であり、自己の行為が社会を作っているから。こういうエゴの気づきや抑制は、坐禅とか念仏だけで(つまり「観想」によって)体現されるのではない。瞑想のようなものではない、現実の対人関係の中での、エゴを捨てる心の使い方が必要である。西田は念仏の「自然法爾」も評価しているが、念仏は「観想」ではない。瞑想でなくても、エゴイズムの自己を否定した世界の一角としての人格的自己に向かって成長できる。その点からも、西田哲学は「観想主義」ではない。
 「自己基体化・実体化への全き否定を媒介として、あるべき本来の「個性的」なありようを実践する」
 自我むきだしの行為から自己を全く没した行為までは、無数な階層がある。一歩でも深い「自己なし」の立場に近い方にたって、現実の社会の中で行為していくことを教えてくれるのが西田哲学であると思う。静かな道場の中のことではない。学校で職場で家庭でのことである。マインドフルネス、アクセプタンスが紹介され始めたが、理論や哲学は、もともと、西田哲学(それが、1500年前の大乗仏教にも近い)にあったものである。しかし、今では社会の現実の場で実際に実践されなくなったのである。西田哲学もその言葉で示すことが実際に行為する時はどういうふうにするのかということが、マインドフルネス、アクセプタンスの実現、行動である。私はそう思っている。
 日本には、大変に深いマインドフルネスがあるのである。エゴに気づき、抑制する深いマインドフルネスがある。深い社会問題はそうでないと解決しない。メタファー(たとえ)でいうと、せきをしている人に、深いところが炎症を起している肺炎ならば、風邪薬では治らないようなものである。感覚レベル、思考レベル、感情レベル、意志作用レベル(意識的自己のあるここまでは対象的な問題)の悩みのマインドフルネスでは、もっと深いレベルの直観(意識的自己は真の自己ではない、意識された自己による生き方を捨てる)レベルの問題には効果がない。自己存在の問題がそうである。自分は価値がないとか、生きる意味とか、自分とは何か、命とは何か、自己の死の苦脳などである。
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★マインドフルネス心理療法と西田哲学
Posted by MF総研/大田 at 11:53 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL