• もっと見る
«(5)むやみに努力しないこと | Main | (7)とらわれないこと»
(6)受け入れること [2012年05月28日(Mon)]

種々のマインドフルネス&アクセプタンス

(21)ジョン・カバト・ツィン氏の哲学
 (6)受け入れること

 マインドフルネス&アクセプタンス(M&A)を世界的にしたジョン ・カバト ・ツィン氏のマインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)にあ る7つの態度(ツイン、1993)は、東洋哲学にもある。正座瞑想、ヨー ガ瞑想、ボディスキャンをする時に、この態度で行う。
  • (1)自分で評価をくださないこと
  • (2)忍耐づよいこと
  • (3)初心を忘れないこと
  • (4)自分を信じること
  • (5)むやみに努力しないこと
  • (6)受け入れること
     これは、マインドフルネスと対になるアクセプタンスで、中核とな る態度である。アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT) は、これを前面に押し出している。ツィンはこういう。

     「受け入れるということは、ものごとを、今あるがままに見るとい う意味です。」

     「私たちは日々の生活の中でも、すでに事実となっていることなの に、それを否定したり、認めようとしなかったりすることがあります 。そして、そのために莫大なエネルギーを浪費してしまうのです。」

     「すでに事実となっていることなの に、それを否定したり、認めようとしなかったりすることがあります 。」という。意識された時には、すでに受け入れ終わっている。その後から、自分の基準で評価を加えて嫌悪したり、あるいは、否認したりしている。

     「あるがままに見る態度を身につけることによって、どんなことが 起こってもうまく対応できるようになります。そして、実際に何が起 こっているかを明確につかむことができれば、自己流の判断や、欲求 、不安感、偏見などでゆがめられた現実にもとづいて把握するよりも 正しい判断ができるようになり、自分の行動に対する信頼感も生まれ てくるようになるのです。」

     不快な感情をおこしたり、エゴイズム、自己中心的な心理も起こしていることをあるがまま認めることである。
     「自己流の判断や、欲求、不安感、偏見などでゆがめられた現実」ということも人間はするものであるから、そのこともあるがままに見れるようにならなければならない。それが、自己他者に誠実であり、良心が働いている。あるがままを認めないと、自分や他者を苦しめない「正しい判断」ができないから、できるようにトレーニングする。

     「いつも”今”という瞬間に注意を向けていれば、それがどんなふ うに変化しようと、次の瞬間に訪れるものを受け入れるための練習に なるのです。」(ツィン 1993)

     不快なこともそうでないこともすべて、あるがままに見る態度が重 要である。そのトレーニングのありさまは「瞑想」になる。坐禅とい ってもよい。呼吸法の中で、あるがままを受け入れているのもいい。 この受け入れの態度で、 静座瞑想、ヨーガ瞑想、ボディスキャンを続けるのである。そうして いると、日常生活のすべての場面で、受け入れの態度が習慣化される 。いわゆる「学習」される。

     痛みばかりではなく、うつ病や不安障害の症状や生活状況も受け入 れるようになり、ネガティブな感情が少なくなるので、脳神経生理学 的な影響をもたらして、症状も軽くなる。症状に対するとらわれか ら解放されて、自分の生きがいになるものに取り組める。

     「いつも”今”という瞬間に注意を向けていれば、それがどんなふ うに変化しようと、次の瞬間に訪れるものを受け入れるための練習に なるのです。」といっている。「今ここ」というのは、日本的な生き 方として、しばしば言われている。

     しかし、襌や西田哲学でいうのは 、非常に厳格である。世界は時々刻々と変化している。無数の人間が自由勝手に行動して世界を変動させているが、それを根底から自己に与えられる。絶対現在(西田)、而今(道元)といわれるように、自己の心において、時間と空間 が分かれていないまさにその今ここの連続である。自分にとっては、非連続である。非連続の連続である。すべてが、意識以前の絶対現在の自己の心の出来事である。それを受け止めた後、自己が意識する。意識された時 、すでに自己の心の場所に受け入れ終わっているのである。人間の根底の自己が受け入れるようにできている。それは改変できない。それを対象的に自分に意識された時、すでに受け 入れているのであるが、嫌悪の感情も起きているものであり、無いようにするのは矛盾である。矛盾を起こすと、苦しみ、自己実現の行動に専心できない。矛盾を感じない場合でも、各人の基準で評価して、 嫌悪や満足の感情を起こす。覇権主義国家と言われる国のことを考えるとよくわかる。国の指導者の行動を嫌悪する人と満足するひとがいる。この国でも、同じことでも賛否がある。

     意識されたものは事実であり受け入れている、そして、執着嫌悪の基準から感情も起きているし、エゴイズムの心も動く。感情の評価もエゴイズムの心理も事実として観察して(見る、知る、受容の局面)、そして自由意志によ ってなすべきことを決意して実行する(行動の局面)しかないのが、生きることである。

     自分の心に起きる感情、評価基準も事実としてあることを認めて、そのうえで、賢明な言葉、態度、行為を表出しなければならない。行為などの選択も多数の可能性があるので、結果を推測し評価しなければならない。さもないと、けんか、口論、人間関係の悪化、犯罪になるかもしれない。自分をうつ病、自殺に追い込むかもしれない。自分のエゴイズムの心に気づき激しい言葉、パワハラなどの行動を抑制しないと他者を自殺に追い込んだりする。

     世界は自然現象と無数の個人が自由に動く から、どのような未来が現れるかわからない「動揺的な世界」である 。現れる現実はどのようなものであれ、避けられないから必然なもの として受け止め、しかし、自己は自由意志によって行動して、新しい 世界を作ることができる。現れる必然的な現実をよく観察して、新し い次の現実の世界を作るために自由意志を行使するのである。

     こういうのは、禅的な生き方である。東洋哲学的な生き方である。欧米の人が、これをマインドフルネスという新しい装いで練習し始めたのである。しかし、中身は日本のものである。 日本人は、昔からそういう生き方をしてきたのである。鈴木大拙は日本的霊性という。根底の無我の自己を自覚すると、すべてが自己のことになるから、受け入れていないものはないのである。

     マインドフルネスは、そういう見方、行動のしかたになるように、練習して、やがて、学習されて、自動化されるほどに自然になるのである。マインドフルネスの理論、哲学などは日本にある。鈴木大拙や襌の書物などによって、欧米に輸出されたものである。中身(根底の哲学)は同じ(明確に言語化していない心理療法者もいるが、今後、研究を重ねる人は、西田哲学、ワーキングメモリ(作業記憶)の神経生理学的に似たことを気づかれるに違いない)であるが、表面を新しい装いにして、その逆輸入が始まっているのである。最近、 心理学で、意識の意識、メタ認知ということをいうが、西田哲学では、意志作用である。 とっくの昔に、実践され言語化されていた。 これもまだ、浅い。二元観である。

     無評価、判断中止というが、我見我執を捨てることを初期仏教以来主張してきた。そして、西田哲学によれば、欧米の人のいう無評価とか判断中止などにおいても、自己意識を残していて対象的なものにとどまっている。二元観、対象的である。判断中止するもの、評価するものさえもなくなった絶対無の立場になっていないという。その立場のない立場でないと心底救済されない問題もあるだろう。ツインも「自己の存在」を信じるようにいう。真の自己存在とは何か、そこまでの問題を支援する人もなく、苦悩し、葛藤し続けてきた人も多いだろう。 マインドフルネスは、今後一層深いところを研究していただきたい。

     襌や西田哲学は、釈尊時代からの自分とは何だろうということを真剣に詳細に探求しつづけてきた蓄積のたまものである。内面の方向に、深く深く探求してきた。 心理学も西田哲学的心理学、襌的心理学というものが、 現代の人の広く深い苦悩や社会問題の解決支援に貢献するだろうと思う。
  • (7)とらわれないこと

(注)瞑想は、これを対人場面でない時に、行うので、「無評価」というが、家族との対話、仕事の場面では、人は必ず「評価」して、感情を起こすものである。無評価ではない。 そこで、瞑想でない場面では、「評価して感情」を起こすが、とらわれないで(それが受け入れ)、価値実現の行動に意識を向ける、というふうに、修正して、「瞑想」の場面ではない時にも、この7つの心得で見て。考えて、行為するというふうに拡張すれば、日本の自己洞察瞑想療法(SIMT)やリネハンの弁証法的行動療法の「マインドフルネス」の定義と類似したものになる。
 そのようなトレーニングは、対人場面でも繰り返し実践しないといけないので、8週間くらいでは身につかないが。

  • ジョン・カバト・ツィン 1993「生命力がよみがえる瞑想健康法 」春 木豊訳、 pp64-66


<連続記事・目次>種々のマインドフルネス&アク セプタンス
Posted by MF総研/大田 at 20:31 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL