マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理 [2012年05月17日(Thu)]
2022年2月発売。
がん哲学マインドフルネス=死を超えるマインドフルネス。
すべての階層のマインドフルネスSIMTの実践ができる本を執筆中です。(3冊目)
感覚的自己、意志的自己、叡智的自己(専門家の自己、行為的直観)、人格的自己(絶対無、無分節を自内證し、創造的直観で慈悲実践)までをカバーする本。マインドフルネスの方法で実践できる本。
感覚的自己の瞑想は、無評価でいいですが、それ以外は、激しい評価の場面、無評価では生きていません。観察のしかたが違います。
専門家や大学人が我見・身見の執着により、一般市民、学生が救われることを無視、傍観、妨害することを、現代哲学では、独断偏見とか、還元主義・画一主義、全体主義というようになります。自分の学説が批判されることを許さない、排除する、そのために環境の変化に応じた問題解決の若手の革新説意見が排除されて、社会全体の利益が妨害される。世界は常に変化しており、批判的新説=異端でないと解決されない問題が常に生じる。
だから、大乗仏教は、無住処涅槃を言ったのです。
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マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理
=支援の対象となる方たちを苦しめないために
マインドフルネスが新しい心理療法や自己実現に効果がありそうな手法であ
るために、用いる人が多くなったが、支援者として、倫理が要求される。
下手に用いると、変性意識を生じるおそれがある。問題解決をながびかせるお
それがある。
大乗仏教は相当古いのに、自分自身に厳しい倫理を課していた。マインドフル
ネスは、仏教に淵源を持ち、仏教に似た瞑想法を用いるのだから、自分で実践
してから用いるのがいい。大乗仏教にある形式だけでなく、支援者に要求して
いる崇高な倫理も学ぶ価値がある。
第3節 大乗仏教の専門家の態度
<第1>大智度論の無住処涅槃
=自己満足に留まらない
大乗仏教は、カウンセリングに似た「慈悲」「利他」ということを強調した
。他者の利益、他者の救済、支援である。そこで、カウンセラーに似た考えか
たがある。参考までにみておこう。
大乗仏教は、般若経でも、唯識(ゆいしき)でも、自利(自分の喜びで満足
する)をとって修行を終わりとせず、利他行を実践することを強調した。その
一つが「無住処涅槃」(むじゅうしょねはん)である。
『大智度論』は般若経(大品般若経)の注釈書である。龍樹作と言われてい
たが、ラモット氏がこれを否定した。しかし、その反論も多く、三枝充悳氏や
武田浩学氏が、やはり、龍樹作とみてよいとされる。
『大智度論』は、無住処涅槃を説く。
<第1> 『大智度論』は不住涅槃を説く
武田浩学氏は、『大智度論』を詳細に点検してみて、『大智度論』には、一
貫して「不住涅槃の思想」(「無住処涅槃」)が説かれていると結論された。
「要するに、『大智度論』全体を精査した結果からは、この「不住涅槃の思
想」以上に『大智度論』が執拗に言及している思想は無い、と断言できるので
あり、『大智度論』を一貫する主題は「不住涅槃の思想」であると見てよいの
である。」(1)
『大智度論』が無住処涅槃について説いている文の一例をあげておく。
「慈悲は是れ仏道の根本なり。所以いかんとなれば、菩薩は衆生が老病死の
苦、身苦、心苦、今世後世の苦等の諸苦の悩むところを見て大慈大悲を
生じ、是の如きの苦を救って、然る後に発心して、阿耨多羅三藐三菩提を求む
。また大慈悲力を以ての故に、無量阿僧祇世の生死の中において心厭没せず、
大慈悲力を以ての故に、久しくして涅槃を得べくして而も證を取らず。
是を以ての故に、一切諸仏の法の中にて慈悲を大と為す。若し大慈大悲なけれ
ば便ち早く涅槃に入る。
また次に、仏道を得る時、無量甚深の禅定、解脱、諸の三昧を成就し、清
浄の楽を生ずるも、棄捨して受けず、聚落城邑の中に入って、種種の譬喩
因縁もて説法し、其の身を変現し、無量の音声もて一切を将迎し、諸の衆生の
罵詈誹謗を忍び、ないし自ら伎楽をなす、みな是れ大慈大悲の力なり。」(2)
慈悲、つまり、他者の救済、他者の支援が仏教の根本であるという。菩薩は
、世間の人の苦悩を見て、救済支援の心を起こして、苦悩の支援活動を行う。
その後に、自己の悟りの完成を決意する。つまり、まず他者の支援を優先させ
る。修行の時に、禅定や楽を感じるが、その自己満足を捨てて、
集落に入って、苦悩解決の説法をする。その際、批判、攻撃を受けても忍ぶ。
満足して寺院の中に留まらず、民衆の中に出て、説法し支援活動をするよう
にという。これだと、力量がためされる。拒否される、批判、攻撃もされる。
そこで、つらい目にあうので、忍耐し受容するアクセプタンスが必要になる。
マインドフルネスとの類似
マインドフルネスは、思考(認知)レベルではなく、意志作用、行為、直観レベルであるので、言葉での支援には限界がある。そこで、仏教と同じような特徴がある。実践しない人は、マインドフルネスには不向きである。行動レベルのものは、行動しなければわからないものであるから、言葉を越えた支援手法が用いられる。
「種種の譬喩因縁もて説法し」とあるのは、最近のマインドフルネス心理療法の「メタファー」(たとえ)の手法である。マインドフルネス心理療法では多くのたとえを用いて、クライエントの理解を助けることと動機づけをするのにあたる。「其の身を変現し」というのは、僧侶の様相をしていないで、医師、教師、農民、会社員などの格好をしていることにあたる。今、大乗仏教の六波羅蜜に似たマインドフルネス心理療法がさまざまな人によって用いられている状況にあたる。まだ20年程度の短い期間である。
こういう崇高な大乗仏教であったのに、インドでは、消滅した。言葉、知的にすぎて(膨大な経典)学問となり、実践が軽視されて、社会の、民衆との接点を失ったせいかも知れない。現在、マインドフルネスがさまざまな職業の人たちによって研究されているから、大乗仏教の様相を帯びている。何百年続くのかはわからないが、「第2大乗」と呼ばれるかもしれない。この運動も、実践を軽視すると消滅するかもしれない。思惟は行動よりも浅いから思惟には限界があるのだろう。西田幾多郎によれば、人の作用は、浅いものから、
判断、知覚、思惟、意志、行為的直観であり、この直観にも段階があるという。意志作用から、行動、行為の意味がある。行動、
実践が軽視されれば、マインドフルネスも思惟レベルになって、言葉で理解する認知的手法となって、人々から見放されるかもしれない。今後の成り行き次第である。
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(注)
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- (1)武田浩学「『大智度論』を一貫する主題は「不住涅槃の思想」ではない
のか」(『印度仏教学研究』98号、平成13年3月、297頁)
- (2) 『大智度論』大正、25巻、256c。
これは、連続記事の一部です。
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Posted by
MF総研/大田
at 14:27
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マインドフルネス心理療法
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