専門家の我執・西田哲学 [2012年04月16日(Mon)]
第3節 専門家の我執・西田哲学マインドフルネス心理療法は、セラピストが、他の心理療法のように「技法」を理論的に知っ ている(それは思考作用の内容であり意志作用ではない)だけでは、充分に、効果を発揮しない ようである。理論に執着するエゴを自覚しなければならないのがマインドフルネス心理療法のよ うである。指導者自身が、日常生活で、マインドフルネスやアクセプタンスを実行する生活を送 るのが必要であるようである。 さまざまな専門的知識、技術を提供する人、研究者は、その分野の<専門家>となるが、種々の 領域の専門家に、専門家の我執が起こりやすいという。人の心の闇は根深いことを大乗仏教や西 田哲学(西田幾多郎による)が教えている。まず、西田哲学をみておく。<第1> 科学は本来、独断と我執を否定すべき3.11震災の後は、時々、専門家や国家(それも構成員は議員や役人という個人)の信頼が 問題になる。 結局、人間には、個人の利益、自分の属する団体、立場を擁護しようとする傾向がある。 西田幾多郎は、人は、自由意志をもつがゆえに悪を犯す自由も持つという。 それを自覚していて、独断的にならないように尽くす必要があるという。「自己の独断を棄てて、真に物そのものとなって考え、物そのものとなって行うことでなけれ ばならない。そこには己をつくすということが含まれていなければならない。」(1) 私たちは常に、生死、正不正、善不善のがけにたたされているともいえる。科学は、我執、団 体や個人の利益を優先して社会の利益をそこなってはならないのだろう。しかし、時々科学者の 偏った見解、団体への偏った立場、データの意図的選択が言われる。 「実践的自己に対して与えられるものは、無限の課題でなければならない。我々の真の自己に 対して与えられるものは、我々の生死を問うものでなければならない。我々はどこまでも自己 の私を去って物そのものとなって考え、物そのものとなって行う、どこまでも真実を求め、 真実に従う、そこに科学があり、道徳があるのである。」(2) 科学(医学、心理学、仏教学、哲学も)は、「自己の私を去って」いないといけないのだ ろう。データや効果は、偏った関係者の立場を有利にするものではなくて、 世界の立場から見たものであるべきだろう。西田哲学は、すべての人が、主観的、独断的、自己 中心的な立場を捨てる段階があることを示している。そうでないと、専門家でさえも自己自身、 葛藤を起こし自分が苦脳する。スランプ、燃え尽き、自信喪失、道徳的苦脳などがある。 さらに、専門家は自分が関係する人に受容しがたい苦痛を与える可能性があるからである。 西田哲学は、単に思索理解するのではなくて、実践するものである。西田哲学が実践されれば、専門家の独断による一般の人の苦痛は軽くなるはずである。 こういうレベルは、対象的なものの受容、集中ではなく、通常のM&Aでは間に合わない。 (注)
(2)『経験科学』巻9,300頁 連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」目次
<2>まず自分自身でやってみること <第3> 支援者になぜ体験が必要か 前の記事についてコメント 第3節 専門家の我執・西田哲学 |
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Posted by
MF総研/大田
at 18:57
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