支援者になぜ体験が必要か [2012年04月13日(Fri)]
第2節 支援者も自己洞察スキルの体験者であること<第3> 支援者になぜ体験が必要か=クライアントが体験して身につける行動的スキルだから=体験的スキルは体験者が指導する M&Aは、つらいことを受容するというアクセプタンスの側面がある。 人の苦悩は深く、広い。だから、それを引き受けるM&Aも深さ、広さが必要になる。 最も深刻な受容は、がんや他の病気などによる「死」の受容ではないだろうか。死の受容のメン タルな助言支援をする専門家は少なく、本人の死ぬ間際の試行錯誤にゆだねられている。アクセ プタンスにも、深いものが在るというのである。 外的対象的個別的事項の不快さから、対人関係の苦悩の受容、精神疾患や身体疾患の苦痛の受容 、芸術家やスポーツ者のスランプの苦悩、自己自身の罪悪感の苦の受容、さらに自己存在消滅の 苦しみ等の受容までさまざまなアクセプタンスがある。
マインドフルネス心理療法は、内奥の自己の探求をする。アクセプタ ンス・コミットメント・セラピー(ACT)、リネハンの弁証法的行動療法、 日本の自己洞察瞑想療法(SIMT)には、深い自己の哲学がある。日本で多くの翻訳書が出て紹介さ れているACTは、 3つの自己の概念を提唱している。 ACTでは3つの自己を提示する。「概念としての自己」「プロセスとして の自己 」「文脈としての自己」である。 @概念としての自己 「概念としての自己」は、嫌悪的な内容を持つものが自己とされて対 象として 描かれ、主観が嫌悪されている。 「簡単に言えば「私は‥‥である」のように自己に対する固定観念の ことで、 ACTは概念としての自己に縛られると(認知的フュージョン)、精神的苦 痛を生む と唱える。 例えば、「私はうつ病だから」という教示は「自己=うつ病」という双 方向性か ら、「うつ病」という言語刺激が持つネガティブな評価機能を自己にも たらし、 個人を自己嫌悪の世界に引きずり込む。言語を巧みに操る人間ではこの 言語プロ セスが自動的に起こり、自己概念への囚われが起こるのである。」(1) 西田哲学でいえば、「意識的自己」にあたる。種々の精神作用に は、作用と対象、それらすべてが於てある場所(その場所も浅いもの深いものがあり、絶対無が々お供深い)があり、「概念としての 自己」は 思考作用の対象であって、全く真の自己ではない。真の自己は、そういう思考をする内奥に生き 生きと働いている。SIMTでは、クライアントには、 そんな考 えられたものにとらわれずに、思考を解放して、自己洞察を深めるように助言する。 Aプロセスとしての自己 自己は苦痛の対象そのものではない。対象が次々と流れていく 「一つ一つ受け流していく行動プロセス」としての自己の自覚を促進さ せる。 「新たな自己体験」であるという。自己洞察瞑想療法(SIMT)の意志的自 己に類似する。 「「今、この瞬間」は刻一刻と変化している。この変化の中で何かに 囚われる ことは、この瞬間の実体験から遠のくことを意味している。・・・ 簡単に説明すれば、プロセスとしての自己とは東洋の瞑想法で見られる ように意 識に浮かび上がる事象に囚われることなく(評価、自己と同一視するこ となく) 、一つ一つ受け流していく行動プロセスのことである。」(2) 種々の精神作用が作り出す対象が次々に移りゆく、それを受け流して いく行動 プロセスであるという。移りゆく事象と、受け流していく態度が含まれ ている。支援者がこれを体験して、指導しなければならない。「東洋の瞑想法」に類似するので ある。ただし、これは、作用の対象が流れゆく現象であって、自己自身ではない。 B文脈としての自己 ACTの「文脈としての自己」は「プロセスとしての自己」の体験をさら にトレー ニングして、自己は「場所」として体験する。受け流す「プロセスとし ての自己 」の一層深化した自己を体験的にとらえる。自己が「場所」であれば、 主観とい うことの意識が隠れていって、種々の苦悩らしいものが自分とは距離が 出てきて 、精神疾患などが治癒していくという。 「他の健康なプロセス(e.g.,アクセプタンス、デフュージョン)をさ らに促進 するともう一つの自己体験がある。ACTはこの自己体験を「観察者としての自己」 、「超越した自己」とも呼んでいる(Hayes et al.,1999)。 通常、クライアントの 多くは自己と私的事象を同一視し(概念としての自己)思い苦しむ。「 文脈とし ての自己」とは自己を苦しみとしてではなく、それが起こる「文脈」と して体験 するプロセスである。自己を私的事象が起こ る場(locus) として体験する ことにより、クライエントは自己と私的事象との明確な区別 を経験し、これ により私的事象への過剰な反応、囚われ(認知的フュージョン)の減少 、アクセ プタンスの促進が起きるのである。 」(3) 対象、作用、場所というように、西田哲学の「場所の論理」から、容易にわかる。 自己は、対象でもな、作用でもない、それらが於いてある「場所」である。しかし、東洋哲学では、この場所が深いのである。浅い場所では、アクセプタンスに限界がある。精神疾患でない問題、領域のアクセプタンス、マインドフルネスに限界がある。 文脈としての自己の深さが、この説明だけでは、西田哲学の自覚的自己の「意識の野」にあたるように 見える。絶対無の場所とは言えない。ACTのこの文言では、東洋哲学の深い絶対無の場所ではなく て、相対的無の場所、意識の野のように見える。しかし、研究者はもっと深い場所を承知しているが、記述していないとも考えられる。その著作が関わる問題領域が、浅い「場所」の体験で十分であると考えてのことであるかもしれないから。しかし、場所としての自己に、絶対無まであるというのは、東洋哲学である。 視点としての自己(文脈としての自己、 観察者としての自己)は言葉で語るものではなくて体験させるものであ るという。 それならば、指導者(カウンセラー、心理士)が「体験」していなければな らない。ACTは、場所(文脈としての自己)の体験が要であろう。体験すべきものを自分で体験していない指導者がクライエント に体験させられるはずがないであろう。
(注)
(2)同上、111頁。 (3)同上、111頁。 (4)「ACTを実践する」星和書店、332頁。 (5)同上、333頁。 連続記事「マインドフルネス支援者の倫理/専門家の倫理」目次
<2>ま ず自分自身でやってみること <3>支援者になぜ体験が必要か (続く) |
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Posted by
MF総研/大田
at 19:55
| マインドフルネス心理療法
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