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自分に都合のよい情報ばかりに基づく [2012年04月09日(Mon)]

支援者の倫理/専門家の倫理(5)

第1節 支援者の資質

支援者が学ぶべきこと

「あわの診療所」の所長、精神科医の粟野菊雄氏が「症例から学ぶ大切なこと」として4つ、あ げられた。
 粟野医師の自己洞察が必要という言葉が続く。

<第4> 自分に都合のよい情報ばかりに基づく

 「おわりに」の部分で、粟野氏から次のメッセージがある。文献を研究するだけの人は、臨床の医師や心理士の資質があるだろうか。4つの点を考察する。 (不幸なことに、仏教は実践する人と学問研究とが分離してしまった。経典の文字と実践がかなり違ってきている。実践者と研究者の互いの尊敬と切磋琢磨が希薄。そのためか、大切なものが見失われているのかもしれない。結果、一般国民によくわからず、期待されなくなり、社会に強い影響を与えていない。M&Aが同じようなことにならないように。)
     「人は、各々、依って立つ場と、現在の配役を持っています。そして、その配役をこなす中で 、(a)二度と再び巡り来ることの無い、この命を、生き生きと発現させるべく、瞬間瞬間、 工夫する権利と義務があります。同時に、周囲の人の命に対しても、可能な限り様々な工 夫をして生きるのを援助することが大切です。
     今日、自分がその配役を果たせたのか、はなはだ疑問に感じます。私の臨床医としての経験は 決して充分なものとは言えません。むしろ、偏っている、といった方がいいと思います。限られ た経験の上で配役をこなす時、「葦の髄から天上を覗く」かのように、(b)「自分を傷つけな い情報・自分に都合の良い情報・自分のアテに見合った情報」ばかりに基づいて、物事に取 り掛かりますと、自己満足は出来ても、(c)最も大切な、実物の命そのものを損なってしまい ます。偏った情報に基づいて治療に取り掛かれば、心身の命を損なってしまいます。(d) そうならないように自戒しながら日々過ごしているつもりですが、他人の至らないところは 、直ぐ目に付いても、己の至らない点には、なかなか気がつかないものです。本稿につきまして 、ご批判、ご指摘をいただけましたら、この上ない幸せに存じます。」(1)
(a)瞬間瞬間、工夫する権利と義務生きるのを援助する
 カウンセリングもさまざまな産業領域のスキル向上の教育も、M&Aの実践も、苦悩する人やスキ ルを得たい人と対面して、解決する力をひきだそうと全力で向かうだろう。だが、学問研究(教 育現場でない、文献研究)は、現在進行形で直接、人と対面する行動ではない。心の病気の治療の臨床場面や心理療法改善支援者や宗教者の指導行為(慈悲、救済)と、文献研究とは大きな相違がある。特に、心の病気の人 に 会うのは、死が近くにある人や生きにくくなっている人の「生きるのを援助する」現在進行形の行動である。健康な人にあうのとは違う。

(b)「自分を傷つけない情報・自分に都合の良い情報・自分のアテに見合った情報」ばかりに 基づいて
 精神医療の領域でも、かなり異なるのだろう。粟野氏のように配慮する人は、こういう見方を指導者から厳しく指 摘され、こういうことをしなくなる心の鍛錬をさせられるだろう。さまざまな学問においても、文献や情報の中から自分に都合のよい文字やデータを重要と評価(主観的、独断的、自己中心的な評価的判断 )して選択抽出して、偏見ある結論をいう人もいるようである。その領域にとって、最も重要かもし れない(そのことさえもまだ学問的に決着がついていない)部分はよくわからないようであり、 実際、実践されなかったり、社会を指導できないことがおきる。意図的に「御用学者」的になること、レベルが低くて結果的に、浅い結論をもって深い誠実な学説を批判することもある。ずっと、後になって歴史的に覆される。
 M&Aについては、文献を言葉を理解することと、実際できるかの体 験とは違うということをアメリカのマインドフルネス心理療法者が強調している。指導の言葉を「信じないでください」という。思考レベルと 行動(意志作用)レベルの違いである。脳神経生理学的にも、処理する部位が違う。 健康な場合でも、東洋哲学的にいうと、 意志的自己レベル(二元観)と人格的自己レベル(自他不二)のくいちがいもある。行動してみないと真実はわからない。

(c)最も大切な、実物の命そのものを損なう
 精神科医が患者さんの生命を握っている。心理士も宗教者もそうであるが、指導がまずいとクライアントを自殺においこんだり、あらぬ期 待を長くもたせて、依存させて、だらだらと来訪させて、その人の苦悩をながびかせて人生を損なうことがある だろう。死の影が浮かぶ人に、現在進行形で会うのであり、臨床の場にない研究者は、そういう厳しい立場に立つことに慣れていない。違うM&Aが必要になる。粟野氏の注意もそういうことに関連するだろう。

(d)そうならないように自戒しながら日々過ごしている
 苦悩する人を損なわないように、種々の自分の心の闇の部分(仏教では煩悩という、SIMTでは 本音という)を起こしていないか、常に、心を観て(自戒)暮らしているのが、粟野氏のような治療者の 日常であるようである。宗教者には戒があり、他者を傷つけないよう、他者を自利の道具に使っ て傷つけないように振舞うことを含む「煩悩」と向き合う。自利ではないのに、自己レベルの違いによって、すれ違いも起きる。深い 自己同志であれば、反響・応答しあうのに、自己レベルが違うと食い違いが起きる。個人個人と が直接応答するのは難しい。自殺が目前にある人とあう心の病気の支援は特に難しい。自戒が必 要である。人とあい続ける限り、実践し続けなければならない、これも、理屈を書いている場面であり、臨床場面ではない。理論を言うのは易しい、行うは難い。
 日々、自戒して暮らすことをこころがけるのは、精神科医に限らず、すべての人の生涯であろう。その点はM&Aを提供する者にも同様に必要があるだろう。心の病気の領域のM&Aは最も難しいと思う。傷つきやすくなっている、受け止めかたが違ってきている、生命の危険がある。しかし、この領域を扱わないでいるわけにはい かない。回避するわけにはいかない。欧米の人たちが取り組んできた原点だから。

(注)
  • (1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」、41頁。

 粟野氏は「葦の髄から天上を覗く」と言われた。西田哲学の自己レベルやM&Aを学んだ私はこん なことを思う。
    「井の中の蛙(かわず:カエル)野の池を知らず、野の池の蛙、大海を知らず」
 人は、「自分とはこういうものだ」とみなして、その目がねでものごとを(その評価基準で対象的に見ることが多い)見る哲学を持っている。知らない世界もあるのだが、わからないないものだと否定する(自己が高いとする我執が本質的である)。深い世界を見た人を排斥する。後に高く評価された人が、生前は家族、知人、世間、団体から否定された例は多い。宮沢賢治も金子みすずも生前は認められなかった。
 心の病気の臨床は難しい。20年もやってきたのに、今でも、時々クライエントの方からお叱りを受ける。傷つきやすいM&Aの実際は難しい。 拒絶過敏性があり、アクセプタンスが狭くなっている。支援側もつらいことを感じるが受け止めて(アクセプタンス)、支援助言(マインドフルネス)をする。 いつまで活動できるかわからないが、年老いてくると、身体の衰えから受容が難しい。自戒が続きます。
 私はM&Aの厳しいことを書いているが、私が実行できているというのではない。西田哲学の「世界の立場」を解釈している。M&Aの研究でも起こるだろうが、仏教や哲学の学問において、自分が実践できていないこと(あるいは、自分の所属する団体の方針が違う場合)は、ある特定のデータに触れない傾向があるように感じる(たとえば、竹村牧男氏や上田薫氏が指摘されたように、深い哲学が見失われるとか、実際生活に生かされないものとなる、僧侶や学者でない社会人はどこでどういかすのか)。 しかし、それでは、世界の立場=人格的自己レベルの科学、学問とはいえないというのが西田哲学の実践的教えでないのだろうか。「自分は実践できていないが、経典(または、開祖の語録)では、こう主張している」と、データをあるがまま紹介するのが、人格的自己の学問ではないのだろうか。学問、科学は、主観的、独断的、自己中心的な態度を捨てて行うべきであると、西田哲学が教えている(自己なくして学問する=自己の立場でなく世界の立場で学問する)のに、学問の場に、主観的、独断的、自己中心的な(自己の利益で)態度、ゆがみがもちこまれる。西田哲学はそれを警告していると思う。自我の評価がない、事実あるがままを見る、行動する。仏教も、西田哲学もM&Aも似たところがある。何ための学問か、何のための修行かと迫る指導者がいる。何らかの苦脳、問題の解決をめざすもの。どこまで社会の現実に実際適用できるのか。わかった、悟ったで完成(それは社会性のない自己だけの満足であり、社会が幸福でない)ではなくて、社会の現実で、他の人のために、どこまでいかせるか。
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理」目次
Posted by MF総研/大田 at 19:28 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL