宮沢賢治の「自他不二」の世界 [2012年04月01日(Sun)]
宮沢賢治『マグノリアの木』金子みすずは、普通の人がみえないところを見る人ですが、宮沢賢治もそうです。宮沢賢治は、仏教の深い哲学を見ていたようです。マインドフルネス&アクセプタンスは、それに似た哲学にささえられています。 彼の童話のひとつが『マグノリアの木』です。しのびをならふ道場諒安という人が、峰から谷へ、谷から峰へ歩いていく。次の記述があります。 仏教や東洋哲学の「自他不二」が理解できないと、この文は不可解でしょう。自他一如は、西田 哲学では、自己の中に世界があり、世界の中に自己があるという。自己を無にすれば、すべての 客観(他、世界、宇宙)が自己となる。この立場から、不可解な表現がされる。 「お前の中の景色」とはこれです。山が自己である。自己の中に山、世界、すべてがある。
(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりももっとほんと うはこれがお前の中の景色なのだよ。) 誰かが、或いは諒安自身が、耳の近くで何べんもこう叫んでいました。 (そうです、そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方 がないのです。)諒安はうとうととこう返事しました。 (これはこれ 惑ふ木立の 中ならず しのびをならふ 春の道場) どこからかこんな声がはっきり聞こえて来ました。諒安は眼をひらきました。霧がからだにつ めたく浸み込むのでした。」(1) 賢治は法華の行者を自負していました。その人が、「しのび」といえば、大乗仏教の「六波羅 蜜」の修行の一つ「忍辱」でしょう。忍辱などの行によって、「ここ」「自分」を追及する。自 分がいつもいるところ、「ここ」が仏教者の道場。 「忍辱」とは、大智度論などに詳細に説かれているが、道元の正法眼蔵「一百八法明門」によ れば、次のとおりである。
「これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。」 いま。どんな境遇であろうと、それが自分の世界。貪瞋痴などをすてて「忍辱」しながら、受け 入れていくべき、自分に当たり前の世界。 「これがお前の中の景色」。山川草木は自分の世界、自分である、それを探求するのが宮沢賢 治の仏教であった。 それを自覚した時、世界が異なって見える。それは、この後に感動の言葉で語られる。
(注)
|
|
Posted by
MF総研/大田
at 00:04
| マインドフルネス心理療法
| この記事のURL