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支援者の倫理/専門家の倫理(4) [2012年03月30日(Fri)]

支援者の倫理/専門家の倫理(4)

第1節 支援者の資質

支援者が学ぶべきこと

「あわの診療所」の所長、精神科医の粟野菊雄氏が「症例から学ぶ大切なこと」として4つ、あ げられた。

<第3> 自己洞察の深化が必要

 自己洞察の低いトップ、取り巻き幹部、あわれな子羊の群れ

 粟野医師の自己洞察が必要という言葉が続く。
     「以上の4点は、次のように言い換えられるのかもしれません。つまり、「私たち人間は、 自分たちが、”自然を前に為す術(すべ)も無く、己の思いを手放しにして、自然の為すがまま に、身も心もゆだねて立ち尽くしている存在である”、ことを忘れてはならない」、と。
     このような自己洞察があって、はじめて、私たちは、他の心の叫びに耳を傾けられるのではな いでしょうか。
     しかし、自己洞察の深化の程度と、治療者の全能者振りの程度は、ときに反比例し、そして 最も自己洞察のレベルの低いものが、全能者組合の理事長となり、その周囲をプチ全能者たちが 取り巻き、そして、その周りを子羊の群れが取り囲む、という図式が成立しがちです。これ では本当の治療は成立しません。
     現在、臨床心理学の分野で活躍されている方々には、釈迦に説法でしたが、将来、心理学の臨 床に携わろうとしておられる方々が治療者として立つときに、以上のことを思い出して下さいま したら、非常に有り難く存じます。」(1)
 カウンセラー(さまざまな支援団体の人も)は、自己洞察のできることが必要であるという。 全能者グループのトップにも、プチにもなりたいような心を自覚し抑制することであろう。マイ ンドフルネスも、日常生活で、常に自分を洞察し続けることをいうようである。襌でも「静中の 工夫」も「動中の工夫」も、自己を見つづけている。自利、我利、我執、我見などを出す自分の 心をいつも観ているようである。そういうものが渦巻く世間の中にあっても、自分の心、他人の 心を観ている。
 文献のみの研究をしていると、そういう自分の心を現在進行形で洞察するのに慣れていないか もしれない。そういう工夫をするには、かなりの実践をしないと、その心の目が会得されないよ うである。文献研究のみをする人は、研究のための資質の向上の努力はするであろうが、自己の 心の現在進行形での洞察の実践学習はしないかもしれない。研究者にも、何かの人生経験におい て、そういう心が会得された人がいることまでは否定しないが、 文献研究と臨床は、かなり違う。心の病気の臨床も、クライエントと会うことが多い仕事では、 対人コミュニケーションも重要となる。クライアントとの実際の対話を通じて、クライアントと の現在進行形で、治癒への心の用い方の相互交流が進展していく。

(注)(1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」、32頁。


 SIMTでは、自己の心の闇を「本音」といい、自覚するようにトレーニングする。人には、差配 欲がある。代表を祭って、取り巻き連中が、また支配欲を持ち、善良な多数を支配する。 「最も自己洞察のレベルの低いものが、全能者組合の理事長となり、その周囲をプチ全能者たち が取り巻き、そして、その周りを子羊の群れが取り囲む、という図式が成立しがちです。」 という構図はよく見られる。反社会的カルトは、最も悪質なものであるが、多くの団体にみられ るので、粟野氏の指摘になったのである。
 宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」が、こういう構図を批判している。
 そういうどんぐりの集団から招かれて講演に行って、その代表の山猫がそのメンバーにかねて 講話していたのとはまるっきり違うこと(こちらが正論)を講演した。もう、二度と講演に招か れなくなった。そういう童話である。 どんぐりを支配していた山猫は、どんぐりたちが成長して山猫の支配から自立していくことを恐 れたのである。支配している代表に不都合な情報がメンバーに伝わることを遮断する。よくある 話である。だが、抑圧されているメンバーは気がつかない。宮沢賢治は、数々の心の闇を見続け た人である。
 深いマインドフルネスはこういう心の闇も探求する。なぜなら、それを発動すると、相手が搾取され、抑圧されるのであるから。あとで気づいた時に怒り、受容できない状況になる。自立を妨げる。支配、抑圧される。支配さえなければ、もっと自由な行動ができたはずなのに。
  • これは「貝の火」。宮沢賢治もこのようにまじめにうったえていた
     宮沢賢治は、M&Aでいうと、他の人が受容(アクセプタンス)できないことをすること、そんなことをしていると、自分でも受容しがたいことになる、それでもなお受容すべきであることなどを童話で訴えていた、ということになる。受容できないとは「苦脳」になるということ。他者に苦脳を与え、自分に苦脳がおきる。そういうことが普通の社会に多いこと。粟野氏、西田哲学の指摘のとおりである。
 こういう点からも、マインドフルネス&アクセプタンスには、哲学が大切なのである。代表、取り巻きの名誉欲、支配欲、金銭欲の自己洞察が大切であることを粟野氏も指摘されたのである。最近、団体活動が多いが、トップや幹部にとって、いきがいになっていて自己洞察が低いと、こういう構図が起こりやすいのだ。粟野氏が憂えるところだろう。
 マインドフルネスを子どもに教育するとき、宮沢賢治の童話を用いて、どのような「本音」が、アクセプタンスでなく、苦脳になるか、現在では、どういうところにおきているか(いじめ、しかと、など) 議論するといい。深い哲学のあるマインドフルネスは、こういうことを探求する。仏教では「煩悩」といった。自己洞察瞑想法/療法(SIMT:Self Insight Meditation Tecnology/Therapy) では自己他者(多己)の受容を妨げる心理を「本音」という。
 今、DV、デートDVで苦脳する女性が多いというが、これも男性側に、心の闇(煩悩、本音)がある。支配欲がある。相手の自由を束縛する。心の闇は、広くあるので、学校のマインドフルネス、アクセプタンスで教育すべきである。M&Aは、心理療法、医療の領域だけではない、広くおきている他者に苦脳を与えること、不正、不誠実、非行犯罪の問題も含む。どういう心理が、他者および団体(自分の所属する団体も含む)にアクセプタンスできない苦しみを与えるか。 この問題は、すべての領域のことである。最近、ビジネス領域でも頻繁に起こっている。 医療分野以外のところのマインドフルネスを推進する人は、こういう哲学的なところも教育してほしい。マインドフルネスの教育プログラムの一部に含めてほしい。こういうのがないM&Aは浅いのである。形式的M&Aである。
 西田哲学では、深い自己を道徳的叡知的自己というが、ここにまで深まった人は、こういう心の闇をよくみつめる自己である。粟野氏に触れた次回の記事では、学者、研究者の学問においてさえも、心の闇が発動されて、(データの改ざん、データの恣意的な抽出、データの裏づけのない効能の宣伝など)科学的な真実が覆いかくされることが起こっていることに触れる。 現代のような、学問が発展しているようなところでも、それを推進する人の自己洞察が浅いと、学問といいながら、事実、真実をゆがめた論文を発表し、学生や社会人に教えることになる。自分の闇を本人が自覚している場合と、自覚していない場合がある。
連続記事「マインドフルネス支援者の倫理」目次
Posted by MF総研/大田 at 23:08 | 人が怖い | この記事のURL