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<目次>種々のマインドフルネス&アクセプタンス [2012年03月26日(Mon)]
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<連続記事・目次>
種々のマインドフルネス&アクセプタンス

 (1)自己の哲学の深さによる違い

★このブログは、マインドフルネス心理療法(SIMT)の基盤になっている、西田哲学、神経生理学について考察しています。このような「難しい?」部分は、患者さんが実践する課題には含まれません。
★元来、大乗仏教にも、現代のすべての領域における人間が関わる問題に貢献できるはずのものという仏教研究者が少数おられます。仏教の言葉は、宗教の中立性を要求される場所(医療、教育、ビジネスなど)では使いにくい(襌の言葉がいわれると、他の宗派の人やキリスト教などの信仰を持つ人をとまどわせる)ので私は用いませんが、西田哲学と同様の深いテキスト(自己を忘れる、自己を空しくする、自己を没するなどにより、自己の中に世界が、世界の中に自己や無数の人があるという「自他不二」)を仏教経典や僧侶の語録の中に見出すことができます。西田幾多郎もそんなことを言っています。日本の芸術家、詩人、思想家なども同様のことを言っています。
 マインドフルネス、アクセプタンスは、欧米のものと日本のものも、こうした人類共通の心、自己、人格の探求方法によって、すべての領域においていかに実践すれば自己実現できるかを提案していくものと言えます。
★そのマインドフルネス、アクセプタンスの内容によって、浅いものから深いものまであるようです。西田哲学の区分によって分類するのが一つの方法です。判断的M&A,知的M&A、意志的M&A、 叡智的M&A、創造的M&Aです。たとえば、マインドフルネス(=何かに集中すること=行為=自己限定作用)として、その集中する内容が、外界にあるもの(勉強やあそびや先生の言葉ど)に集中するのが、判断的マインドフルネス。知的M&Aは外界にあるものを意識作用によるとは知っているが対象しかみない、自己の作用をみない(ここまでは、小中学生に授業で教えられることかもしれません)。種々の内外的対象(心理現象)を作る作用を見て、自分の目標の実現になる行為に集中するのが意志的マインドフルネス(心の病気の治療、予防はここまでで十分)。 さらに、 自己を没して客観を自己として事にあたるのが叡智的マインドフルネス。 心の病気ではない人が、心理的なこと、メンタルなことで、実力を発揮できない領域、自己存在について葛藤する領域。さらに、自己が消えてすべてを世界の事として行為するのが創造的マインドフルネス。宮沢賢治のように、自己を勘定にいれずに(意識された自己がないのだから)、世界の事(他者の苦脳など)が自己の事として受け止めて働く領域。自他不二に徹したマインドフルネスとアクセプタンス。
★こうして、マインドフルネスには、種々の段階があり、それぞれの段階に応じた、アクセプタンス(受容)がある。知的自己や意志的自己は、叡智的自己のレベルの葛藤、苦痛の受容はできず、無知、不可解の思いを持ち、または、苦脳する。 西田哲学は、直観と行為とを一つとみている。そこには、それぞれの段階の受容がある。 見ている、直観して行為していて滞りがないところには、アクセプタンス(受容)があるから。 最も深い受容は、自己の死の受容である。人格的自己は、自己の永遠の死を知り、受容する。
 マインドフルネス、アクセプタンスがブームだから、私もM&Aの枠組みで実践法と理論を構成します。別なブーム(たとえば、脱落現成、必然自由、自己否定即自己肯定、死んで生きるなど)になれば、衣がえできます。西田哲学は、必然(だから受容)即自由(行為)、直観即行為(そこには受容がある)などを云いました。色々な言い方があるわけです。 何もマインドフルネス、アクセプタンスである必要はないわけですが、苦脳の領域には、わかりやすいといえます。 大乗仏教が種々の派(般若、天台、如来蔵、唯識、華厳など)になったのですが、基本は類似しているのと同様です。説き方が違っているが、深い底は同じようなもの。大乗仏教は、修行として、六波羅蜜といい、やはり、アクセプタンス、マインドフルネスの要素もあります。
★今は、マインドフルネス、アクセプタンスが期待されているから、西田哲学をこれにあてはめてみている。M&Aは元来、日本にあったもの。詳しく述べてみたい。
<連続記事>
種々のマインドフルネス&アクセプタンス
Posted by MF総研/大田 at 10:28 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL