芸術にも人格と人格との応答 [2012年03月20日(Tue)]
私と汝・君と僕=芸術にも人格と人格との応答芸術にも人格と人格との応答「2人の人が会う時に、言葉を交わし、態度行動をみせる。それが相手の底で反響して、応答 して 、互いを知る。もし、2人のうち、一方が「君僕関係」であれば、反響は起こらないで、応 答も 浅く、くいちがう。芸術作品についてもそう言える。人格的自己や絶対無を表現しようとする作品であ る場合、そ れを鑑賞する人が「君僕関係」であれば、作品から人格的反響は起こらないで、作者との間 の応 答もくいちがうのであろう。日本の芸術には、自他不二、絶対無を表現しようとしたものがある と思う。松尾芭蕉は「物我一智(一致)」と言ったし、宮沢賢治や金子みすずのほか多数あると 思う。」 前の記事で、こう書きました。 芸術にも人格と人格との応答のある場合も西田幾多郎は次のように言っています。
「故に芸術的直観と考えられるものは、その根底に於て一種の行為でなければならない。見る ことが行為であり、行為が見ることであり、行為によって見るといふことが芸術的直観といふこ とでなければならない。芸術的直観といふも、行為的実在の世界を離れたものではない。それは 我々の人格的活動の一部分でなければならない。芸術的内容も社会的・歴史的と考えられる所以 である。」(旧全集6巻387頁) すでに、金子みすずの詩を見ましたので、それをもう一度検討してみます。みすずは、普通の 人が見えない 広いこころ、深いこころを詩にしているように見えます。
心の底に、まず「遊ぼう」と入ってくる。底はそのまま受け入れる。誰でもそのように受け入 れる底を持つ。しかし、誰でもある底を自覚しているのではない(見えないけれどある)。一部の人が表面で返す「応答」は「遊ぼう」には「いやだよ」、「馬鹿」には「こ のやろう。よくも」となる。「誰でも」受けいれるわけではない。 みすずは、ふつうの人が見えないこころを詠っているから、多くの人の心にひびく(反響)の だと思います。はっきりと理解、反響できないけれど、何か本質に迫っているような気がする。 そこに、フアンが多いのではないでしょうか。別の詩でも感じます。もう一つ、 みてみます。 |
Posted by
MF総研/大田
at 16:37
| マインドフルネス心理療法
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