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私と汝・君と僕 [2012年03月18日(Sun)]

私と汝・君と僕

 =人間関係の中の私と汝

  • 「団体の意向が個人に命令として迫る」の 続きです。

    私と汝・君と僕

     どのレベルのM&Aも、個人と個人(宗教ならば絶対者との関係も)の対応があると思います。 西田幾多郎は、人と人との関係が、深い人格を認める関係(私と汝)とそうでない関係(君と僕 )を指摘しています。 団体においても、深い人格を認め合うメンバーだけで構成されているのかどうか問題になります 。こう申しあげました。

     西田幾多郎は、人と人との関係には、「私と汝」の関係と「君と僕」の関係とがあるといいま す。
     思考によって考えられた自分、対象化された自己は真の自己ではない。まさに、そのように考 えている時の奥に働くものが真の自己である。思考や行為する奥底に思考するもの行為するもの がある。意識的自己を 脱落(自己否定)すれば底に相手が映る、人格と人格は互いに根底(絶対無の場所)で受容している存在であると 認める。次の「汝」は絶対無であり、人格的自己の基礎になる。 互いに相手の底を通じて対話し応答しあう。私だけの存在もなく、汝だけでの存在もない。この絶対無を互いに認めれば、矛盾するような、自己と相手とが絶対無の底を通して一つである。 親と子、夫婦、友人、職場や団体の自己と他のメンバーもそうである。 そのようなものが真の人格であると承認しあう2者の基礎になるのが汝である。
       「私は汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何等の一般者もない。併し私は汝 を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である。私の底に汝があり、汝 の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである。絶対に 他なるが故に内的に結合するのである。」(旧全集6巻381頁)
     ところが、多くの人間関係がそうなっていない。相手の底に人格の基礎になるもの(大乗仏教でいう「 仏性」なのだろう)、そういうものを自己の底にも相手の底にも認めていない。そういう2者は 、「君と僕」の関係である。内在する人格的なものの基礎になるものを/∞で表すと、 人が自覚していようがいまいが、人間の本質であるから、みな「ひと/∞」である。 私は「私/∞」であり、他者は「他者/∞」である。しかし、/∞を認めない人間同志は、「君」と「僕 」である。「君/∞」と「僕/∞」とはなっていない。 相手を自分の思考で考えられるものとしか見ない。根底の人格を認めていない。
       「人格としての私に対して立つ汝は、私と同じくまた歴史的世界に於て個物の役割を演ずるも のでなければならない。真の私と汝とは君と僕ではない、抽象的な個物と個物とではない。」 (旧全集8巻65頁)
       「普通に考えられる私と汝というのは、かかる関係に立つものはない。汝というも、それは唯 他の私である、主観的世界に於て対立する汝である、隣人的汝である(真の私と汝とではなくし て君と僕である)。」(旧全集8巻69頁)
     「親/∞」と「子/∞」、「夫/∞」と「妻/∞」、「同じ組織の私/∞」と「同じ組織の他者/∞」 の関係がある。一方で、 「親」と「子」、「夫」と「妻」、「同じ組織の僕」と「同じ組織の君」の関係があるが、底の人格的なものを認めない。 真に相手の人格を承認した関係ではない。 現代社会の人権を無視した種々の社会問題(DV=暴力、虐待など)は、ここにあると思われる。前 の記事で見た、主観的団体同志の対立も、団体内のメンバーの対立もそうだろう。もう少し、書 き加えます。
  • Posted by MF総研/大田 at 20:54 | マインドフルネス心理療法 | この記事のURL