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認知療法があるのになぜマインドフルネス心理療法か [2011年07月28日(Thu)]

認知療法があるのになぜマインドフルネス心理療法か

  原子力発電所の事故に関連して、専門家や国家の信頼が問題になっています。 結局、人間ですから、個人の利益、自分の属する団体、立場を擁護しようとする。 これも我執、独断の一つの現われでしょう。

 科学は本来、独断と我執を否定すべき
 「自己の独断を棄てて、真に物そのものとなって考え、物そのものとなって行う ことでなければならない。そこには己をつくすということが含まれていなければな らない。」(西田幾多郎『経験科学』(旧全集巻9,300頁)

 私たちは常に、生死、正不正、善不善のがけにたたされているともいえます。科 学は、我執、団体や個人の利益を優先して社会の利益をそこなってはならないのい でしょう。しかし、よく科学者の我利や団体への偏った立場が言われます。

 「実践的自己に対して与えられるものは、無限の課題でなければならない。我々 の真の自己に対して与えられるものは、我々の生死を問うものでなければならない 。我々はどこまでも自己の私を去って物そのものとなって考え、物そのもの となって行う、どこまでも真実を求め、真実に従う、そこに科学があり、道徳があ るのである。」(『経験科学』巻9,300頁)

 科学(薬物療法の医学、心理療法の科学も)は、「自己の私を去って」ないといけないのでしょう。データや効果は、偏った関係者の立場を有利にするものではなくて、 世界の立場から見たものであるべきというのでしょう。

独断的・自己中心的

 しかし、悲しいことに、人間は「各人の独断、各人の我執というものが、この世界 に本質的」であると言います。人間に本質的ですから、全世界で起きています。日本のことだけではありません。
     「否定すべきは、我々の自己の独断と我執でなければならない。無論、矛 盾的自己同一的な世界は夢と偏見とに充満することが、それに本質的でなければな らない。・・・各人の独断、各人の我執というものが、この世界に本質的でなけれ ばならない」(『経験科学』巻9,301頁)

     板橋勇仁氏は、これを引用しています。

     「我々の自己が自己である限り、自らが世界において必然的に決定された存在で あるということを見失う事態も生じよう。我々の自己においては、自らが自立的に 自らの内に存在根拠を持ち、行為しうるものとして自らを基体化・実体化し、それ に基づいて世界を差配・統御しようとする恣意的で我欲的な契機が備わって おり、この契機が無くなることはありえない。「各人の独断、各人の我執というも のが、この世界に本質的でなければならない」」(板橋勇仁,2008「歴史的現実 と西田哲学」法政大学出版局、240頁)
 板橋氏は、この後に、専門家にも我執、独断が起きることが本質的であることを 説明しています。 医学や心理学も「科学」でしょうが、そこの担い手の人間にも、独断、恣意が起き るおそれがあります。歴史的にも何度も実際起きました。 自己や自己の技術を絶対化して、独断的、利己的に思考、行為する。 不都合なことを隠す、データを 歪曲する。無知であるために害のあることを専門家がすすめた。偏見によって病人 を排斥した。専門家の我執、偏見、独断で、困るのは国民です。全世界で起きてきましたし、今も常に起きています。時に、専門家による科学のベールをお おっているので信じこまされるおそれがあります。西田幾多郎がいうのはそういう ことでしょう。
 心の病気も、独断、我執が関係しているので、自分の我執、独断を探求 します。今の瞬間に働く我執、独断は、認知療法の「固定観念」とは違い、従来の心理療法にはない概念であるので「本音、本心」と名づけました。
Posted by MF総研/大田 at 18:07 | 新しい心理療法 | この記事のURL