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カウンセラーも自己洞察スキルの体験が必要(5) [2011年06月29日(Wed)]

カウンセラー(セラピスト、医者)も自己洞察スキルの体験が必要(5)

 アメリカのマインドフルネス心理療法者は、それを提供しようとする セラピスト(医者、カウンセラー)が、マインドフルネス、アクセプタ ンスの体験者であるべきであるといっています。

日本で盛んに翻訳書が出て紹介されているアクセプタンス・コミットメ ント・セラピー(ACT)は、 3つの自己の概念を提唱している。  マインドフルネス心理療法は、内奥の自己の探求をする。アクセプタ ンス・コミットメント・セラピー(ACT)、リネハンの弁証法的行動療法、 日本の自己洞察瞑想療法(SIMT)には、深い自己の哲学がある。 ACTでは3つの自己を提示する。「概念としての自己」「プロセスとして の自己 」「文脈としての自己」である。

@概念としての自己
 「概念としての自己」は、嫌悪的な内容を持つものが自己とされて対 象として 描かれ、主観が嫌悪されている。
 「簡単に言えば「私は‥‥である」のように自己に対する固定観念の ことで、 ACTは概念としての自己に縛られると(認知的フュージョン)、精神的苦 痛を生む と唱える。 例えば、「私はうつ病だから」という教示は「自己=うつ病」という双 方向性か ら、「うつ病」という言語刺激が持つネガティブな評価機能を自己にも たらし、 個人を自己嫌悪の世界に引きずり込む。言語を巧みに操る人間ではこの 言語プロ セスが自動的に起こり、自己概念への囚われが起こるのである。」(1)
 SIMT(自己洞察瞑想療法)でいえば、種々の精神作用に は、作用と対象、それらすべてが於てある場所があり、「概念としての 自己」は 思考作用の対象であって、全く真の自己ではない。クライアントには、 そんな考 えられたものにとらわれずに、自己洞察を深めるように助言する。

Aプロセスとしての自己
 自己は苦痛の対象そのものではない。対象が次々と流れていく 「一つ一つ受け流していく行動プロセス」としての自己の自覚を促進さ せる。 「新たな自己体験」であるという。自己洞察瞑想療法(SIMT)の意志的自 己に類似する。
 「「今、この瞬間」は刻一刻と変化している。この変化の中で何かに 囚われる ことは、この瞬間の実体験から遠のくことを意味している。・・・ 簡単に説明すれば、プロセスとしての自己とは東洋の瞑想法で見られる ように意 識に浮かび上がる事象に囚われることなく(評価、自己と同一視するこ となく) 、一つ一つ受け流していく行動プロセスのことである。」(2)
 種々の精神作用が作り出す対象が次々に移りゆく、それを受け流して いく行動 プロセスであるという。移りゆく事象と、受け流していく態度が含まれ ている。

B文脈としての自己
 ACTの「文脈としての自己」は「プロセスとしての自己」の体験をさら にトレー ニングして、自己は「場所」として体験する。受け流す「プロセスとし ての自己 」の一層深化した自己を体験的にとらえる。自己が「場所」であれば、 主観とい うことの意識が隠れていって、種々の苦悩らしいものが自分とは距離が 出てきて 、精神疾患などが治癒していくという。  
 「他の健康なプロセス(e.g.,アクセプタンス、デフュージョン)をさ らに促進 するともう一つの自己体験がある。ACTはこの自己体験を「観察者としての自己」 、「超越した自己」とも呼んでいる(Hayes et al.,1999)。 通常、クライアントの 多くは自己と私的事象を同一視し(概念としての自己)思い苦しむ。「 文脈とし ての自己」とは自己を苦しみとしてではなく、それが起こる「文脈」と して体験 するプロセスである。自己を私的事象が起こ る場(locus) として体験する ことにより、クライエントは自己と私的事象との明確な区別 を経験し、これ により私的事象への過剰な反応、囚われ(認知的フュージョン)の減少 、アクセ プタンスの促進が起きるのである。 」(3)
 視点としての自己(文脈としての自己、 観察者としての自己)は言葉で語るものではなくて体験させるものであ るという。 それならば、指導者(カウンセラー、心理士)が体験していなければな らない。体験すべきものを自分で体験していない指導者がクライエント に体験させられるはずがないであろう。
    観察者としての自己は、描写によっても、理論的な理由づけに よっても、あるいはそれについて語ることによっても、発見されること はない。視点としての自己は体験されるものであり、そのため、この領 域におけるACTのワークは、主として体験的なワークである。」 (4)
 だから、ACTもそうであるが、弁証法的行動療法も、自己洞察瞑想 療法(SIMT)においても、指導者やクライエント(患者)が、今ここの洞察実践を重ねて体験(実践)されない 限り、身につくことはない。 理論を理解するのは、思考作用の対象(内容)である。視点としての自 己は思考作用や内容の於てある場所である。自己洞察を繰り返し体験して、文脈としての自己を体験すべきというのであるが、その体験は宗教のような信念(固定した内容、思想)はない。「光を見た」などというような特定内容の体験でもない。
     「視点としての自己はスピリチャリティと関連しているが、宗教的な性 質のものではない。・・・ あらゆる体験の文脈となるのは、この自己の経験であり、これには境界 線がない。宗教的なものも、他のどのような種類のものも、内容が存在 しないならば、それは宗教的ではない。つまり、スピリチャリティのよ うに体験されるものとは違って、宗教は体験というよりも信念の問題な のである。」(5)
 視点としての自己は体験されるものであるが、宗教とは違って、信念 は含まれない。
 マインドフルネス心理療法は体験しないと動きださない。 自己洞察法の実践は、毎日、30分は、体験してほしいと言う。30分体験すれば、色々なことを体験的に身につける。 カウンセラーになろうとする人も、そうしないと、他者を指導できない。 マインドフルネス心理療法と標榜しながら、指導内容、指導方法が、 第2世代の認知行動療法における呼吸法、リラクセーション法と同じになってしまうのであろう。

(注)
(1)「アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈」ブレー ン出 版、102頁。 (2)同上、111頁。 (3)同上、111頁。
(4)「ACTを実践する」星和書店、332頁。 (5)同上、333頁。
カウンセラー(セラピスト、医者)も自己洞察スキルの体験が必要
Posted by MF総研/大田 at 21:44 | 新しい心理療法 | この記事のURL