アクセプタンス・コミットメント・セラピーと自己洞察瞑想療法(SIMT) [2010年12月08日(Wed)]
アクセプタンス・コミットメント・セラピーと自己洞察瞑想療法(SIMT)前の記事で、弁証法的行動療法の「賢明な心」をみました。マインドフルネス心理療法には、弁証法的行動療法、アクセプタンス・コミット メント・セラピー(ACT)、マインドフルネス認知療法(以上は、欧米で創始され た)、自己洞察瞑想療法( SIMT: Self Insight Meditation Therapy )(これは日 本で創始された)などがあります。 今度はACTを見ます。 ACTでは3つの自己を提示する。「概念としての自己」「プロセスとしての自己 」「文脈としての自己」である。 概念としての自己「概念としての自己」は、嫌悪的な内容を持つものが自己とされて対象として 描かれ、主観が嫌悪されている。
プロセスとしての自己ACTの「プロセスとしての自己」は、主体と対象(感覚、思考など)が区別され るものであり、自己は苦痛の対象そのものではない。対象が次々と流れていく 「一つ一つ受け流していく行動プロセス」としての自己の自覚を促進させる。 「新たな自己体験」であるという。
文脈としての自己ACTの「文脈としての自己」は「プロセスとしての自己」の体験をさらにトレー ニングして、自己は「場所」として体験する。受け流す「プロセスとしての自己 」の一層深化した自己を体験的にとらえる。自己が「場所」であれば、主観とい うことの意識が隠れていって、種々の苦悩らしいものが自分とは距離が出てきて 、精神疾患などが治癒していくという。
知識として理解しただけでは意味がないACTはこういう。カウンセラー講座やカウンセリングセッションで講話を聴く。 テキストを読む。だが、それだけでは、「知識だけの理解はそのまま教示として 体験の回避を引き起こす機能を持つ可能性がある」という。せっかく、理解した はずなのに、実践しない、それは体験の回避である。指導者にもクライアントに も回避が起きる。マインドフルネスに関心をもって研究する専門家も自分で実践しない。回避である。
「文脈としての自己」の体験エクササイズとして観察者エクササイズがある。 このエクササイズは 「文脈としての自己」を体験させ、「概念としての自己」からの開放、デフュー ジョンのための文脈作りを図る。観察者エクササイズはまた数あるACT技法の中で 、特に重要な臨床的技法の1つとして位置づけられている。」(4)
SIMT(禅、西田哲学)でいえば、私的事象は、種々の作用の対象で、「それら を抱える空間」は、それらを包む「場所」「一般者」(抽象的)である。この場所は「意識の野」に該当するだろう。 場所は、包む、写す、観るという働きが映されているが、西田哲学では、映す働きをする「具体的一般者」がある。 ただし、その一般者にも、浅いものと深いものがある。 ACTの観察者としての自己は、「変わらないもの」というが、これは、東洋哲学とは異なるようだ。体験してみないともっと深いものがあることも疑問にならない。観察されるものは、場所かもしれないが、それを観察するものは、場所か点か。 これは、なお、意識された自己であるから、なお、これを意識するものがあるから、真の自己ではないというのが西田哲学である。だから、この観察する自己でさえも悪を犯すという良心の責め苦と、観察する自己さえもなくなる「死」の問題を克服できないという。 ACTは、SIMT、西田哲学に類似する言葉、体験的な概念、技法があ る。しかし、なお、東洋哲学とは重大な相違もある。意識される自己は深い自己ではない。 苦悩から解放され苦痛を受容して生きるACTの実践者(実践者はである)は苦悩が違う見え方になる。ディフュージョンは、結びつき、連 鎖・連合の解放のことである。アクセプタンスは、つらいことの受け入れである。
欧米で発展してきたACTは、意志的自己までは西田哲学に極めて類似している。ただし、意志的自己は、内容を持つものである。 ACTは、欧米の行動分析学を背景としている。自己洞察瞑想療法(SIMT)は、日本の西田哲学を 背景としている。類似性があるので、共通の領域に貢献するだろうし、相違があ るので、貢献できる領域が異なる面もあるだろう。西田哲学は、さらに叡智的自己、人格的自己と深い自己の探求がある。文脈としての自己、意志的自己はなお二元観(それでも内容が違う)であるが、叡智的自己から相対的一元観となり、人格的自己は徹底的な一元観となる。叡智的自己レベル、人格的自己レベルのマインドフルネスは、欧米のマインドフルネスにはないようだ。(ヴィパッサナー瞑想をする流派にも)。叡智的自己、人格的自己は、日本独特の哲学である(ただし、フランクルに類似する)。鎌倉時代から自覚されていた。しかし、昭和の頃には、核心が失われ、今もその状況が続いている。(西田幾多郎、竹村牧男、大竹晋など) マインドフルネスが哲学を入れない支援者によって形式的に適用してみて、効果がみられたという傾向があるが、それは、そのように、データが取れる範囲で有効である。ただし、そこには、哲学、理論がないので、データがとりにくいところには、適用しないであろう。 浅い問題(感覚や思考の対象になるもの)なら効果的であるが、生きる意味、自己存在、自己評価がかかわる問題には、用いることは難しいであろう。欧米には、フランクルのロゴセラピーがあったが、日本には、生きる意味や深い自己(叡智的自己、人格的自己)で苦悩する人、そこから発する深い苦悩が多いのであるから、日本にある深い哲学、実践を活用しなければならない。 いつまでも、西洋の二元観の哲学に基づく領域だけをみていてはならない。フランクルでさえも、「一人類教」と言う深い領域をいったのに。 マインドフルネスを習得しようとするカウンセラー、セラピスト(心理士)にも、クライアント(患者さ ん)にも違いがあるだろう。 欧米のもの、精緻な行動分析学が好きな人にはACT,弁証法的行動療法があり、日 本の禅、西田哲学が好きな人には、SIMTがある。 両方とも、坐禅ににた瞑想法(呼吸法)が嫌いなセラピスト、クライアントには 向かない。最初、呼吸法ができない人を根気よく指導する力が求められる。説明 だけではない、体験させるのである。体験できるように援助するのである。 マインドフルネス心理療法を語る人がマインドフルネス心理療法の実践者ではないマインドフルネス心理療法は、自己を深く洞察する実践的瞑想型の心理療法である。 仏教の研究者は仏教の実践者ではない。禅の研究者は禅の実践者ではない。文献の操作であって、 実践体得されていない。そのように、マインドフルネス心理療法の研究者、マインドフルネス心理療法を「語る人」は、必ずしも、マインドフルネス心理療法のセラピストではない。マインドフルネス心理療法のセラピストには、体験が必要である。クライエントと雄弁に会話する対面援助が必要である。そうでないと、本を書いたり、講演はできても、1人の患者さんさえも、臨床には用いることができない。改善の援助はできない。1,2年のあいだ、患者さんに方法を詳細に語り、わからない時にアドバイスして導く対話スキルがないと現実の苦悩解決の援助ができない。マインドフルネス心理療法SIMTには、嫌悪や執着の観察気づきの探求がある。人の負の心理も洞察する。セラピストのエゴイズムも自己洞察する。SIMTでは「本音」という。患者さんは、生死をさまよう。患者さんをセラピストの利益のために利用しないようにしなければならない。セラピストとしての倫理が求められる。欧米のマインドフルネス心理療法者(ACT)も警告している。こわいのは、セラピストの力量不足ではなくて、苦悩するクライアントを自分の研究や収入に利用する心である。大乗仏教にも、欲望の強い人は指導者になってはならないという。信者をむさぼるからである。「マインドフルネス」にもそれが言える。 人間は実に広く深いので、私も力量不足である。しかし、クライアントにとって、SIMTのような自己洞察は効果がゼロということはない、何か得られるものがある、そういう心理療法である。私も、さらに効果ある技法、援助法の研究をかさねていく。 こうした特徴から、援助者になる人も限定されるだろう。難治性のうつ病、非定型うつ病、不安障害 、親子夫婦の人間関係の苦悩、死の不安など、そのほか多くの領域に有望な心理療法であるが、瞑想(呼吸法=坐禅に似てい る、深く自己(のエゴイズム)を洞察する)が好きな心理士でないと習得できない。 いったん習得すると、幅広い領域に貢献できる。人間のこころを深く探求してい くものであるから。今、欧米では、難治性の精神疾患は、認知療法からマイン ドフルネス心理療法にシフトする動きがある。もちろん、認知療法が向いている 患者さんもいる。両方あってよい。 医療は、治療効果の高いものを求めて、次々と新しい治療法が開発されていく 。国民、患者さんの利益のために当然の流れである。 残念なことに、日本ではマインドフルネス心理療法、認知行動療法の普及が遅 れている。患者さんの利益(なおって、社会で活躍したい)が損なわれて、自殺においこんでいる。種々の領域で 心理的ストレスが原因になっている社会問題が多い。 心ある心理士、それを志望する人のご理解と参加を切に期待したい。
★さまざまなマインドフルネス ★「学者は平気でウソをつく」 ★叡智的自己 ★叡智的自己 ★人格的自己のマインドフルネスへ 宗教者だけのものではない。マインドフルネス推進者は、自分のものを絶対視しないように、人格的自己の哲学は理解していただきたい。自己のものを執着すると、もっと深いものでないと救済されない社会問題の解決法の開発を妨害する。「みんな違って、みんないい」のである。 心理療法、心理学などにも、様々なものがあるように。 |