• もっと見る
«子どもの不登校 | Main | 種々の世界(4)=種々の世界の一覧»
種々の世界(3)=絶対無=無の一般者=宗教的意識 [2010年03月09日(Tue)]

種々の世界(3)=絶対無=無の一般者=宗教的意識

=マインドフルネス心理療法と西田哲学

 マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている 。 西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述した。哲学は心理療 法ではないが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己や精神活動について 記 述している。 マインドフルネス心理療法に応用できるようなところをみている。
 西田哲学は難しいが、その精神を受けとめて、やさしく応用することとし、 哲学的なことはカウンセラーは簡単に学習し、クライアントは哲学とは思わないで 、課題を実践すれば哲学も自然に実行されているように工夫したい。研究課題は多 い。

絶対無=無の一般者=宗教的意識

 西田幾多郎の論文「叡智的世界」で、種々の世界を見ている。
 叡智的自己の最も深いものが道徳的自己である。自己を見ること深ければ深いほ ど、自由なれば自由なるほど、自己自身の矛盾に 苦しむ。そのような矛盾を脱して 一種の回心によって、真に自己自身の根底を見るのが宗教的意識(絶対 無の自覚) である。 これ以上、深い自己はなく、真の自己であり、すべてのものを映すものである。 マインドフルネスのジョン・カバト・ツィンの 「全体性」もこれかもしれない。西洋の人も、東洋哲学を理解、体得する人が出てきた。

世界 別名 包む一般者 於いてあるもの
有の場所 自然界、判断的世界 判断的一般者 (*1) 「有るもの」「働くもの」、空間、物理現象、力の場、「意識的自己」
意識の野
意識界 自覚的一般者 (*2) 自然界、知的自己、感情的自己、意志的自己
叡智的世界   叡智的一般者 (*3) 判断的一般者、自覚的一般者
絶対無の場所 無の一般者 なし(「絶対無の場所」は究極の一般者) (*4) すべてのもの


(*4)無の一般者
叡智的世界の内奥の極限に「絶対無の場所」がある。
道徳的自己は「悩める魂」である。 自己を見ること深ければ深いほど、自由なれば自由なるほど、自己自身の矛盾に 苦 しむ。そのような矛盾を脱して真に自己自身の根底を見るのが宗教的意識(絶対 無 の自覚)である。深い罪の意識をもち、深く自己自身の中に反省し、反省の上に反 省を重ねて、反省そのものが消磨するとともに、回心が起こり、真の自己を見る。 最も内奥の真の自己には、真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もないこと を直観するのである。当為的価値を超越して、存在価値が見られる。
身心脱落(自己を亡くす)して、見るものなくして見、聞くものなくして聞くもの に至る。
◆「 自己が自己の底に超越するということは、自己が自由となることである。自由意志 となることである。自由意志とは客観的なるものを自己の 中に包むことである。しかし、意識一般の如く対象がなお自己自身の内容でない場 合は、自由なる自己とはいわれない。真に自由なる自己は自己自身の内容をもたね ばならない(内容なき意志は意志ではない)、しかもこれを自己自身の内容として 内に包むものでなければならない、すなわち自己自身の於いてある場所となるもの でなければならぬ。」(旧全集、巻5-173)

◆「宗教的意識においては、我々は身心脱落して、絶対無の意識に合一する のである、そこに真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。宗教的価値 というのは価値否定の価値である。価値否定の価値といえば、背理の如く思われる かも知れぬが、いわゆる価値というのはノエマ的方向に考えられた対象的価値であ る。・・・ かかる方向にあるものは、いつも当為的価値の否定の立場に立つものでなければな らない、存在価値は当為的価値を否定するごとに高まるのである。」(旧全 集巻5-177)
◆「ノエマ的には叡智的自己の内容として真、善、美以上の価値は見られないだろ う。しかし、知的直観の一般者が絶対無の一般者によって裏づけられる限り、迷え る自己というものが見られるのであり、なお一歩ノエシス的超越が残されるのであ る。そこに反価値的価値の極地として宗教的価値というものが考えられるのである 。それで、宗教的価値とは自己の絶対的否定を意味するのである。絶対に自 己を否定して、見るものなくして見、聞くものなくして聞くものに至るのが 宗教的理想である。これを解脱というのである。」(旧全集巻5-178)

 「宗教的意識」というが、西田の宗教的というのは、自己の外に(外部の方向、 対象の方向)超越的な神や神の世界をいう「宗教」ではない。すべての人の内奥の 根源を自覚するものである。
     「叡智的世界に於いてある最後のものが自己自身の中に矛盾を含むということは 、同時に自己の中に自己超越の要求を蔵することを意味する、すなわちその背後に これを越えたもののあることを意味するのである。一般者がさらにこれを包む一般 者に於いてあり、後者によって裏づけられた時、前者に於いてある最後のものが自 己自身の中に矛盾を含むものと考えられるのである。この故に、知的直観の一般者 といえども、なお最後のものではない、さらにこれを包む一般者すなわち絶対無の 場所というごときものがなければならない、それが我々の宗教的意識と考えるもの である。」(全集巻5-176)
 自己の悪、罪に苦しむ人、苦しみからの解放を求める、超越の欲求を持つ。それ は、苦を越えるものがあることを意味する。(ただし、自己を根底にどこまでも深 めて道徳的自己まで深まった所のさらに奥底にあるものであり、常識的な「宗教意 識」とは異なる方向であろう。常識的というか、宗教の中には、自己の底、内在的 方向、作用的方向ではなく、対象的方向、外部方向へ自己とは隔絶したシンボルを 崇拝するものが多い。そういう宗教意識では絶対者と自己は対立している。西田哲 学でいう宗教意識は常識的な「宗教」意識とはまるで異なることに注意する必要が ある。

    「自己を亡くすことによってのみ、神において生きるということができるのである 。」(旧全集巻5-182)

 西田哲学でいう宗教的理想、「解脱」は、自己(すべての人の)の根底が「絶対無」であることを 自覚することである。自己が脱落するので、「自分こそ他人と違う絶対者である」 という傲慢な意識は絶対にない。他の人物に依存する意識も消える、自由の人とな る。 したがって、カルト的宗教のように、特定人物の指図に盲従したり、反社会的な行 動をして結果として自己自身や他者を苦しめたり、生命を軽んじることは断じてな い。 宗教や哲学によって「解脱」ということでも天地の相違がある。
 真善美などの価値観を越えたものが(すべての人の)自己の根底にある。(すべての人の)とあえて加えたが、西田哲学は、すべての人の人格が「絶対的に平等であることをも説明する哲学である。
 真(知識)を知るはずの者、善 (道徳)を行う人格者でも、美(芸術)を表現できる芸術家でも、みな、それらと は次元を異にする自己自身を知らないことがあるので、迷い、苦しむことがある。 そういう人も、真善美とは異なる次元の自己の探求にはいっていった人が多いだろ う。芸術家には特に多い。自己の美のイデアに満足できずに苦しみ苦や美の根源を 求めて自己の内面の方向への探求に向かったのである。 世阿弥、千利休、松尾芭蕉、夏目漱石、宮沢賢治、東山魁夷などはそうだろう。
 いずれにしても絶対無の探求と真善美の探求とは次元が異なるので、芸術や道徳 の探求を経なければ、叡智的世界、絶対無の世界に入れないということはない。
 西田がいう「神」は、対象的に超越した絶対者ではなく、すべての(国籍、性別、宗教にかか わらず)人の根源の「絶対無の場所」「無の一般者」をさしている。そこには、「 自己、自我はない、人間のはからいや価値や苦楽を超越して、ただ、あるがままの事実が 生滅している。

マインドフルネス心理療法へ

 うつ病や不安障害などの精神疾患を治癒する領域は、意志的自己の段階か、それを越えた「知的叡智的自己」の段階である。1,2年の治療プログラムへの参加によって治癒することが多い。 心理療法は宗教ではないので、「絶対無の場所」の自覚まで実現する必要はない。しかし、その存在や特徴を「心理療法の仮説」として取り入れて、治療技法を使う。映す、包む心理的手法はその典型である。

 アメリカの心理療法者は、仏教や禅の実践に似た手法をとりいれて、マインドフルネス心理 療法を開発した。西田哲学は禅(自己とは何か、世界とは何か)をも論理的に説明している。禅は元来、実践である。苦も楽も、すべてのものを映す、包むという実践をしながら、「自己」とは何かを実践的に生活の中で探求する。映す、包むという行為が自己の意識を超えた「場所」の存在を前提としている。
 マインドフルネス心理療法のうちでも、自己洞察瞑想療法(SIMT)は、「絶対無の場所」の存在を「仮説」として利用して 、その仮説から、症状や不快事象、すべてのこと、すべての作用(見る、聞く、考 える、意志する、行為する)がその場所に映す、包むという実践による生活をする 。人生には、つらいことも多い。必ず、自分の価値や自分の本音とは違うという評価することを避けられないのであり、他者からも評価されることは避けられない。それが、現実である。 しかし、たとえ不快なことがあろうとも、必然のこととして受容し、自分の願いを実現する方向の意志的行為をする訓練を するので、うつ病や不安障害の回避はなくなる。そのことが、神経生理学的フュー ジョン(連合)をもたらして、症状が軽くなる(マインドフルネス心理療法の実践 が、なぜ神経生理学的な変調(たとえば、前頭前野の容積の萎縮によるとみられる機能低下)の回復までもたらすのかまだ解明されていないが、治癒する という事実は現実に起きている)。

 (続)
    (注)
  • 上記は「叡智的世界」より。(数字)は、西田幾多郎全集、昭和40年、岩波 書店の巻5の頁。



Posted by MF総研/大田 at 22:56 | 私たちの心理療法 | この記事のURL