知識・思惟は直観に基づくべき [2010年01月27日(Wed)]
知識・思惟は直観に基づくべき=マインドフルネス心理療法と西田哲学マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている。 西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述した。哲学は心理療 法ではないが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己や精神活動について記 述している。 マインドフルネス心理療法に応用できるようなところをみている。 知識・思惟ストレスのある出来事に遭遇すると、思考によって精神疾患になり、精神疾患になると「思考」 が否定的になる。思考はすばらしい文化を生むが自分を苦しめることもする。精神疾患になるとな らないと関係なく、自分の思考についての特徴を知らないことが多い。精神疾患になるとなおさら 思考について知らず、思考によって症状を悪化させる。「思考」の作用を知ることは「自己」を知 ることである。西田幾多郎は思考についてどう言っているか。思惟は真であるが内容は実でない思惟、すなわち、考えるということは、真である、内外の事実が考えられる。思惟の真っ最中は、 主客の分裂はない、内容は主客対立である。つまり、思惟の作用は実在であるが、内容は真ではな いかもしれない。
直観から思惟へ移る人は、対象的な認識から内界を知ると思うかもしれないが、対象認識は実在ではないので、 思惟のような対象認識から直観を得ることはない。逆である。内部知覚、直覚があって、それを反 省思惟して知識が生まれる。直観に基礎付けられた知識である。
「直観とは超作用的に主客合一という如きことではなく、場所が自己の内に自己を映す無限の過 程でなければならない。故に思惟から直観へではなくして、直観から思惟へである。」 (「自覚について」巻10-507) 考えは現実から出るべき直観が実在を映すので、直観を離れた思惟は真ではなく空虚である。しかし、直観も反省思惟で 自覚されないと知識にならない、「思惟のない直観は盲目的である」、見落とされる、具体的知識 とならない。だから、思惟は、現実、事実、直覚的なものから出立しなければならない。 目前の事実によらない思考は無駄である。嘘である可能性が高い、予期不安の思考も内容は目前の 事実ではない。しかし、思考作用は現実に動いて、事実と錯覚しておびえる。
「我々の考えは現実から出立せなければならぬ。我々が物を考えるというのは、既に現実に於て 考えて居るのである。」 (「行為的直観の立場」巻8-126) マインドフルネス心理療法へ思考の作用は実在であるが、思考の内容は現実にはないものがしばしばである。直前の直観を反 省して自覚した思惟、反省的思惟は事実の一面をとらえるが、直観から離れた思惟は嘘である。た とえば、はなを見て(直観)、「花」と反省した時、「花」(魚ではなく)という情報(一部であ る)は得るが、花びらのいろ、かたちなどの豊かな情報はない。直観には豊かな情報があるが、思 惟は貧弱である。だが、直観が反省されないと知識にならない。精神疾患の患者は、否定的思考、予期不安などの思考を起こす。内容が真実ではないことを知ら ない。不安についての直観的知識がない。不安についての知識がないので、事実によらない思考を 繰り返して社会的な行動を回避する。 うつ病や不安障害になると、事実、直観に基づかない思考を、過去の想起、予期不安、自己の否 定などの思考を繰り返す。そういう直観によらない思考から症状を悪化させる。こうした思考の空 転の習慣を治すために、みだりに思考を回転させない訓練を行う。目前の事実に注意を集中して生活する。思考や感情、症状としての内的 感覚などを直観から離れずに反省し映して観察(自覚)することを日常生活の中で多く行う。この ような実践によって、自己の意識現象(感覚、思考、感情など)の直覚に基礎づけられた「知識」 を獲得する。自己の意識現象を正確に知ることになる。こうした自己の正確な知識(観察 による直観的な叡智)を獲得することによって、遭遇するストレス事象を冷静に観察して建設的な 行動を選択(意志)していくことによって、症状が軽くなる。 そのような、いわば、心の使い方を変えていくので、再発しにくいのである。トレーニングの期間中に前頭前野などが回復することが起こると推測される。 (続)
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