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行為的直観(1) [2009年12月17日(Thu)]

行為的直観(1) 

=能動的、外が内、自由意志

 マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡 単に見ている。 西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述した。哲学は心理療 法ではないが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己や精神 活動について記 述している。西田は現実の世界や自己の真相を哲学的に論理的に記述 しようとした。 マインドフルネス心理療法は、自己の精神活動を事実を反省して自己 の精神活動、自己自身につい ての知識(事実<直観される実在>にもとづき事実によって 確認される知識)を得ることに よって精神疾患を治癒させ、予防せんとするものであるといえる。従 って、マインドフルネス心理 療法と西田哲学とは類似した部分、重複した部分がある。
 通常、心が健康な時における行為においては、自分を意識せず、葛 藤的志向を起さず、種々の精神作用を統合的に見て(直観)瞬間的に 満足であることを判断(了解)しながら行為が進行していく。そうし た「行為的直観」が無限に進行していくと言える。
 一方、精神疾患のいくつか(うつ病、不安障害 、依存症など)、あるいは、種々の職業上、個人生活上の苦悩(精神 疾患ではない領域、家族の不 和、スポーツ・芸術の領域における実力発揮の限界、医療・産業領域 におけるミス、事故などの問 題)は、自己の精神活動の事実をよく知らず、みだりに直観から離れ て、直観から遠く離れた対象的思惟 (思考)を現実であると錯覚して起きるとも言えるのである。
 アメリカと日本で新しい認知行動療法としてマインドフルネス心理 療法が発展しつつあるが、そ の原理はアクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT) においては「行動分析学」の立場から探求されている。弁証法的行動 療法においては、 禅の哲学を応用したものという。禅の哲学と西田哲学とは親近性が指 摘されている。禅の哲学とい っても、学者によってまちまちの解釈がされており、これが禅の哲学 であると示すことは難しいが、主観 ・客観、自己と世界、現在・過去・未来、内と外など相対立するもの (矛盾的なものが)が自己同一(西田は絶対矛盾的自己同一という) であるというのはおおかた一致している。
 禅に似た実践、すなわち、マインドフルネスやアクセプタンスの実 践によって、 精神疾患や職業上の苦悩の一部が解決するのである(これは事実であ る、改善・治癒ということが 現実に起こる)が、西田哲学によって、治癒する理由が説明できるか 、マインドフルネス心理療法 の成立の根拠が西田哲学によって説明できるか、それが、禅の哲学と いかなる関係にあるのか 興味ある課題である。もし、こういうことが解明されれば、日本独自 (実は東西に関わりなき人間の実相かもしれない)の西田哲学が マインドフルネス心理療法という医療、スポ−ツ、産業などの領域に おける社会問題の解決に貢献 することができる。

行為的直観

 西田哲学では「直観」という概念が頻繁に出てくる。その意義は、 西田の初期と後期では違う。
 まず、初期の頃は、「直観」を「直接経験」ともいい、それは、す べての人に常に進行している意識(不断進行の意識)である。我なく して見ている 、聞いている。その後で、それを対象として思惟に載せるのが「反省 」である。その反省により知識が 生まれる、そして行為する。直観、反省、行為により知識の進展が無 限に進む、自己発展である。この場合の知識は直観という実在を基礎 にしたものである。
     「直観というのは、主客の未だ分かれない、知るものと知られるも のと一つである、現実そのま まな、不断進行の意識である。反省というのは、この進行の外に立っ て、翻ってこれを見た意識で ある。・・・余は我々にこの二つのものの内面的関係を明らかにする ものは我々の自覚であると思 う。自覚においては、自己が自己の作用を対象として、これを反省す ると共に、かく反省するとい うことが直に自己発展の作用である。かくして無限に進むのである。 反省ということは、自覚の意 識に於いては、外より加えられた偶然の出来事ではなく、実に意識そ のものの必然的性質であるの である。」(「自覚に於ける直観と反省」2巻15頁)
 直接経験(直観)においては、主観客観の別がない、我なくしてみ る、我なくして聞く。見ら れる物は自己の場に映されて自己において一つである。自己が行為す ることは物が行為することで ある。見ることが物が働くことを見る、自己が働く。

行為的直観は能動的

 後期には、直観の意義が変わる。見ること(直観)と行為とは通常 は対立するものであり、別のものであると考えられているが、 西田は直観と行為は、矛盾するようであるが自己同一であるという。 行為的直観という思想を提示する。思想といっても、 自己の現実、自己の真相であるというのである。
 直観、直覚というと、受動的と考えられるが、見ることが働くこと であり、能動的である。ここでは対立するものが一つである。弁証法 的である。
     「歴史的実在の世界においては、内部知覚即外部知覚、外部知覚即 内部知覚的に物が見られると いうことが、物が働くということであり、我が意識するということで あり、行為によって物 が見られるということである。」 (論文「行為的直観の立場」全集8巻、144頁)。

     「直覚はすべて行為的直観というべきものである。直覚は受動的と 考えられるが、単に受動的な 直覚というものはない、否、受動もまた一種の働きでなければならな い。」 (論文「行為的直観の立場」全集8巻、121頁)。

外が内である、内が外である

 通常は客観が外、主観が内であるが、しかし、直観においては、内 が外であり、外が内である。時間的なものが空間的である。絶対現在 において、自己が自己にお いて外を映すのである。行為によって物 を見、見ることによって行為するのである。ここに直観に根拠を持つ 「知識」が生じる。
     「行為の立場というのは、内が外であり、外が内である、時間的な るものが空間的であり、空間 的なるものが時間的であるということである。而して我々は行為によ って物を見、物が我を限定す ると共に我が物を限定する。それが行為的直観である。我々が経験を 知識の基本と考えなけ ればならぬというのも、経験というのがかかる意味において行為的直 観なるが故である。 経験というのは、ただ直接的に我に対するものではない。そういうも のならば、夢と択ぶ所がない 。行為を離れて経験というものはない。」 (論文「行為的直観の立場」全集8巻、131頁)。
 客観を直観して行為し、行為し見るのである。直観が行為である、 行為的直観である。行為(働 く)は、自己の内から、自由意志によって行為するのでなければ自己 とはいえない。無意識ということは自由意志ではない。 無意識で行為するということではない。自己が意識されない行為の底 に、自由意志が働く。 行為によって、自己自身を形成(限定)していくことでなければなら ない。意識的自己の奥底に、自由意志が働いている。
     「我々は自己が働くと考える。自己が働くということは自己の行動 が意識的であるということで なければならない、意識的自己から働くということでなければならな い。 しかし働くということは、力の発現でなければならない。単なる意識 は力ではない。是において我 々は意識的自己の底に力を考える、意識を超えたもの、働くものを考 える。しかしその力というの は、どこまでも外から我を動かすものであってはならぬ。外 から我を動かすと考えるならば 、我というものはなくなる。我々はそこに衝動とか、無意識とかいう ものを考える。しかし衝動と いうものが、動物の本能の如く、単に合目的世界の自己限定として考 えるならば、自己というもの はなく、又無意識というものを考えても、それが単に意識否定を意味 するものならば、自己という ものはない。自己はどこまでも自己自身を限定するものでなけれ ばならない。自己は自由でなけれ ばならない、そこに我々が意識的に働くという意義があるのであ る。自己の働きの底に無意識とい う如きものを考えるということは、自己の自由を否定することである 。我々の自己意識は実に深い 矛盾の上に立つ。我々は我々の自己の底に、どこまでも自己を越えた ものを見なければならない。 しかもそれを単なる外と考えるかぎり、我というものはなくなる。た だ、内が外であり、外が内で ある行為的世界の自己限定として、我々の自己というものがあるので ある。」 (論文「行為的直観の立場」全集8巻、131頁)。

マインドフルネス心理療法への方法

 我々は行為的直観的に見て、行為するものである。 ところが精神疾患になると、見るもの、聞くものは自分の働きではな くて、外から自分をおびやかすもの となる。現れるものを、脅威的、悲観的に見る、聞く、感じる。 そのために、それを嫌い、避ける、苦痛が大きく、社会生活がそこな われる。
 現実の世界は、現在に過去、未来が含まれている。見る現在に過去 、未来がある。過去、未来の経験を含み今見る。精 神疾患になると悲観的思考(思惟も行為である)や回避的行為をする 。行為的直観であるというこ とは、見る、聞く時すでに同時に未来の行為を見ている。過去が現在 にあって、過去が現在に影響する。
 客観は主観の作るものであるが、精神疾患になると、見る、聞く、 感じるなどの現象を自己とは全く別のものと見て、受容せず、現象の 事実をあるがま まに映すことをせず、すぐにそれて思惟(思考)に移り、嫌悪的 思考を繰り返 して、苦しみ、この現実を嫌悪し否定して、客観的事実から遠く離れ て苦悩を持続することになる。
 必然的に現れる現実をあるがままに見て、受容して、その中で、、 自己自身の幸福の実現のために自由な意志的行動ができない。 こうした客観的事実から離れた悲観的否定的思考は神経生理学的 フュージョン(連合)を累積させて身体内世界に病理が生じる。それ によって身体症状、精神症状をもたらして、現れる事象をいよいよあ るがままに見ることができなくなる。 客観的事実(それによる知識)から離れた思考をくり返し、行為が社 会生活を障害するものとなる 。
 西田哲学的な自己の探求によって、精神疾患を治療する方向が導き だされる。精神疾患における自己や客観の見方を変えることであ る。心を開けて、見るもの聞くもの感じるものをあるがままに移して その実態を観察によって了解する ようにすることであ る。いたずらに事実から離れた思惟に移らないことである。
 こうした原理から、マインドフルネス心理療法のトレーニング技法 が開発される。 呼吸法を用いて、あるいは、日常生活の行動中に、みだりに思考に移 らず、あるがままを観察する訓練をする。現れる現象は外のものでは なく自己の心の開けに映るものであることを自覚する。現象は自己と 別ではなく、心の内に あるものであり現実はそのまま受け止め、その中でも、自己の自由意 志によって自己実現の行動をする訓練をする。自己を失った、自由意 志でない衝動によって行為しない。たとえ不快であってもそれを必然 のこととして受容して(包んで、映して)、非機能的行動を取らず、 自己の価値実現の行為 を選択する。
 見る、聞く、感じる時にすでに同時に未来の行為を予測するような 評価や行動基準的意識(「本音」という)を持 って見聞きすることが習慣化されていることを自覚(現在進行形で観 察により知る)する。そのような本音の一部は、その発動を抑 制して、できれば捨てる訓練をする。
 このような訓練をしても、うつ病や不安障害などの病理はすぐには 治癒しないで、半年から1年の実践を続ける。 読んで理解する知識ではない。実践する智慧である。
 うつ病や不安障害は、神経生理学的フュージョン(連合)の累積( 悪化の方向)によるので、短期には症状は軽くならないが、このよう な訓練を継続すると数か月のうちに、 神経生理学的フュージョン(連合)の連鎖(軽減の方向)によって神 経細胞レベルの病理が徐々に回復する。

 (続)
    (注) 上記の( 頁)は、西田幾多郎全集、昭和40年、岩波書店。

Posted by MF総研/大田 at 15:21 | 私たちの心理療法 | この記事のURL